5.監禁を二度も黙認した警察
宮腰美千代
偏向報道に煽られ、両親が猛反対
1987年6月のことでした。
「最近帰りが遅くなったけど、これに入っているんじゃないの?」
朝日新聞に掲載された統一教会批判記事を読んだ母が、私にこう尋ねました。
1か月前、統一教会に入会願書を出した私は、どう答えたらいいか一瞬迷いました。「怒らないから言ってごらん」という言葉に、私が「そうです」と答えると、母は手のひらを返すように「お父さんが知ったらただじゃおかないわよ」と恐い顔をし、信仰をもつことに反対しました。その後、1年半ほど黙認状態が続きました。
両親は宗教性に乏しく「宗教は弱い人がするもの、神様などいるわけない」と決め付けていました。私は1988年11月初旬、就職先を紹介してくださった先生と話し合い、決まっていた就職を断ることにして、翌年1月1日、統一教会の活動に専従したい旨を両親に伝えました。以後2か月間、両親の猛反対に遭いましたが、3月はじめ、両親に豊中教会(大阪府)に来てもらい、教会長から直接統一教会の説明を聞いてもらいました。
父が「娘を教会にあずけましょう」と言ったため、89年4月1日、私は統一教会活動に携わることができるようになりました。その後、両親をケアするため豊中教会の親交会の方が、私の自宅を何度か訪ねてくださいました。しかし両親は感情的になることが多く、信仰を理解することは難しい状況でした。
その後、私は東京の配属となりましたが、両親は91年1月頃から月一度のペースで電話をかけて来るようになりました。あるとき「事業が大変だから戻って来て欲しい。お金が大変なんだ」と言ったため、心配した私は3万円を家に送ったこともあります。後で分かったことですが、それは私を家に連れ戻す口実に過ぎず、お金は机の引き出しにそのまま置いてありました。
92年1月、祖母が入院し、その看病のため1か月ほど家に帰りました。同年6月には、3万双の国際合同結婚式に参加することを伝えるため家に帰りました。その後、山崎浩子さんの入信報道から始まった統一教会および国際合同結婚式に関するマスコミ報道が過熱していきました。もともと宗教に批判的だった両親は、反対牧師、元信者、左翼ジャーナリストらが流す偏向報道に煽られ、統一教会を目の敵にするようになりました。
そんな8月13日の明け方、夢を見ました。ある部屋のドアを開けると長机があり、そこに文鮮明先生が座っていました。私が向かい合って座ると、文先生が「地球に占める海の広さはどのくらいか?」と質問され、「7割です」と答えました。文先生が近くに立っていた人に耳打ちされる場面で目が覚めました。その日、教会責任者から「祝福の相手が決まった」と言われました。相手は韓国人でした。
普通なら両手を挙げて喜ぶところですが、私はとっさに両親の顔が脳裏に浮び、「これは大変なことになる」と身震いしました。私は、実家に帰って報告することに不安を覚えました。なぜなら全国で拉致監禁事件が多発しており、他人事と思えなかったからです。
私を伝道した人もその時、拉致監禁被害に遭っており(後で戻って来ましたが)どこにいるか分からない状況でした。そのような事情から、両親には電話で伝え、8月25日の3万双国際合同結婚式に参加するため韓国に出発しました。私は帰国後、手紙で祝福について説明し、両親に報告しました。しかし、反対派の批判を真に受け「祝福は金儲けの手段」と決めつけていた両親に、祝福のすばらしさを理解してもらうのは困難な状況でした。
父から電話が頻繁にかかり、「母が自殺した」と嘘までつく状況となりました。私は責任者と相談し、同年9月10日、家に戻ることにしました。
何とかして両親を伝道しようと思いましたが、父は酒を飲んでわめき、私の話をまともに聞いてくれようともしません。挙げ句の果てに、統一教会に電話をかけ「娘が辞めたがっているので脱会届を送って欲しい」と勝手に電話する始末でした。
私は、母に理解してもらおうと統一教会の書籍を紹介し、韓鶴子女史が来日された際にはその講演会に誘いましたが、無視されました。
私は統一原理と出合うまで両親を尊敬できないところがありました。こんな家には居たくない、家を出るか死ぬかどちらかにしようと思っていたほどです。しかし統一教会の教えを学び、両親を尊敬しなければならない、統一原理の良さを知ってもらって両親を祝福に導きたいと願って接していましたが、無視されたのです。
私は本当にがっかりしました。そして、私の家庭の状況を夫に伝えようと思い、3月3日から5日まで韓国へ行く飛行機のチケットを予約しました。
93年2月はじめ、母は大阪府高槻市の市民相談室に行き、弁護士から「大阪栄光教会の松沢牧師がいい」と言われ、反対牧師を紹介されたそうです。このことは監禁中に母が話してくれました。父は2月27日に祝福の話を聞く約束をし、豊中教会の親交会の人と会うことになっていました。しかし、それは私を油断させるための罠だったのです。
「弟が交通事故」、騙されて監禁場所へ
93年2月24日、私は両親に「7時頃帰る」と伝え、買い物に出かけました。午後8時に帰宅すると家族は食事中でした。私が食事をはじめると電話が鳴りました。
電話に出た母は、父に対し「次男が城東警察の近くで交通事故に遭って近くの病院へ運ばれたらしい」と言いました。その日の朝、私は弟が大学の用事で出かけると聞いていたので、大学近くで事故に遭ったのだろうと思いました。
父が動こうとしないのを見て、私は「早く行かなあかんやろ、御飯なんか食べている場合じゃない」とせかしました。父は「車で行った方が速い」と母に地図を持ってくるように頼み、その地図を私に渡して場所を探すよう言いました。地図を調べると、城東警察署前に東大阪病院がありました。私はこの病院に弟が入院したものと思いました。
父が運転し、母は助手席に乗って、後ろの座席に長男と私が乗りました。病院への道は複雑で分かりにくく、母が「そこを右、左」と指示する姿に「よく知っているな」と不思議に思いました。母親が下を向いて神経の昂ぶりを押さえている様子を見せたとき、父が「大丈夫だから心配するな」と慰め、道路の看板を見ているように言いました。後で分かったのですが、このとき母が落ち着かない様子だったのは、拉致監禁計画がうまくいくかどうかを心配していたのです。
大阪市城東区の東大阪病院の看板が見えると車は右折し、何処に止めようかと場所を捜すふりをしてから、あるマンションの前に停車しました。
私が車を降りて病院の方へ急ごうとすると、父が私の前に廻り込み、マンションに向かって押すのです。体格の良い長男も私の手をつかみ、父と一緒になって背中を押し、気づくと母もその後ろにいました。
私が「ここは病院じゃないでしょ?」と言うと、父が「ここなんだ」と激しく言いました。その言葉に、一瞬「病院の裏口か?」と勘違いしましたが、マンション2階まですごい勢いで押されたことからやっと監禁と気づき、2階から3階まで必死に手摺につかまりました。手をふりほどかれた私は、2階や3階のドアを叩き、家のチャイムを鳴らして助けを求めましたが、口を押さえられ、靴を履いたまま4階の部屋に押し込まれました。私は家族からこのようにされたことでショックを受けました。そして、部屋の中に交通事故に遭ったはずの弟がいるのを見て、「騙された、くやしい」という思いが込み上げました。
牧師指導の下、監禁マンションを準備
私は、93年2月24日から6月6日までの103日間、大阪市城東区のマンションの4階に監禁されました。そこはワンルームマンションで、四畳半ほどの部屋と、仕切った隣に台所とバス・トイレが付いていました。玄関は普通の内鍵でしたが、ドアのチェーンを短くし、そこに南京錠を取り付け、簡単には開かないように細工してありました。もう一つ、数字を合わせて開けるカギも取り付けてありましたが、母が老眼で開けるのに苦労することが多く、そのカギは徐々に使わなくなりました。ベランダのガラス戸も開かないようサッシの下の方にカギが取り付けてありました。トイレのカギはかからないようにしてあり、父が「わざと壊して籠城できないようにした」と説明しました。
包丁などの刃物は特に厳重に何処かに隠してあり、「カミソリを買ってきて」と私が頼んでも「ダメだ」と言われました。枕は大阪栄光教会から借りたと、母が言いました。部屋には電話もテレビもラジオもありません。松沢牧師が来たとき、父が「テレビを持ち込んだらいけないでしょうか」と尋ねると、牧師は「ない方がいい」と指示しました。
私は監禁されたとき、職場が気になりました。連絡もせずに休むのは社会常識としてあり得ないからです。また、突然いなくなった私の代わりに誰が仕事を引き受けるのかが心配でした。父に「明日仕事があるのにどうするのか」と言うと、父は「今朝、おまえの会社に電話をかけ、しばらく病気で休むと言っておいた」と答えました。私は勝手なことをする家族に対し怒りがわきました。
私は以前、監禁から脱出してきた人の話を直接聞いたこともあり、今回の監禁は短期間では終わらないだろうと覚悟せざるを得ませんでした。
強制改宗で信者獲得ねらう牧師
87年に私が統一教会に入会してから、監禁されるまでの約6年間、母は一度たりとも、私が紹介する統一教会関係の本を読まず、拒み続けていました。それなのに、母は手のひらを返すように「今まで習ってきたことをお母さん達に聞かせて、6年間どんな事を学んできたの」と執拗に迫ってきました。これは牧師の指導でそう言わされていると感じ、私はその誘いに一切対応しませんでした。この時、牧師の指示だと気づかず、両親を伝道するチャンスだと思って何でもしゃべっていたら、自分自身を窮地に追い込むことになっていたのではないかと、後から振り返って思わされました。
その夜、玄関を見に行くと、チェーンにカギが付けてあり、ドアを開けることができませんでした。敏感な母はすぐに起き、父と弟の二人も目を覚ましました。
狭い部屋で、絶えず監視の目があるため、私はまったく自由になれませんでした。先がまったく見えない中、私は「偽装脱会しかないのでは」と考えました。
私を伝道したIさんも3万双の国際合同結婚式の前に監禁され、京都の船田牧師のもとから無事に脱出してきた経歴がありました。しかし、私は「偽装脱会がすぐ見破られるのでは?」と不安に襲われ気が狂いそうになりました。やっと決意できたのは「強行脱出か、親を諦めさせるかのどちらかしかない」ということでした。
しかしその場合、監禁が長引く可能性が考えられ、自分が精神的に耐えられるかどうか、また、脱出できても果たして結婚した夫が待っていてくれているかどうか、さまざまな不安がよぎって気が休まりませんでした。
監禁後、数日すると、日本ホーリネス教団大阪栄光教会の松沢力男牧師と元信者がやって来るようになりました。七人対一人になることも多く、私は牧師に「話し合いが必要なら、自分からあんたの教会に行ってやる。統一教会の人がこんなやり方(監禁)で統一原理を学ばせたことはない。私は自分から喜んで学びに行った。統一原理を勉強するというなら、同じ数の統一教会メンバーを呼ばなければフェアーじゃない」と抗議しました。
監禁された環境の中で唯一の希望となったのは、松沢牧師が「統一教会から出している本は何でも読ませたらいい、そうしたら統一教会の間違いが分かるようになる」と言った一言でした。松沢牧師はこの時、10人連続して統一教会信者を脱会させることに成功し、それらの元信者を自分の教会信者にしていこうとしている最中でした。脱会させたことを自慢げに話す牧師でしたが、このような卑怯なやり方で信仰を棄てさせ、自分の教会信者を増やそうとしているキリスト教に失望し、怒りが込みあげて来ました。
私は、家に置いてあった統一教会出版物『御旨と世界』『御旨の道』や反対牧師対策のための書籍を、弟に持ってくるよう頼みました。そして、どの本に反対牧師の批判に対する答えが書いてあるのか、相手に分かってはいけないと思い、布団をかぶってレポート用紙に書き写しました。空いている時間はすべて勉強に費やしました。これまで、このような勉強をしてこなかったことを悔い改めながら、真剣に取り組みました。
それから40日間、朝起きると自分が何も変わっていないかどうかを自然にチェックしていました。そして、何も変わっていないのが分かると、奇跡でも起こったかのように神様に感謝しました。いつ自分がマンションにやって来る元信者と同じ気持ちになってしまうとも限らない霊的な闘いでした。絶対に私の心にサタンを侵入させてはいけないと思い、今までの信仰を振り返りながら、教会の兄弟姉妹と葛藤した内容などを悔い改めました。
父からの暴力に「死の恐怖」
元信者が次々とやって来て脱会強要をしました。彼女たちは、監禁を保護と称し、「脱会後は大阪栄光教会でリハビリするのだ」と言いました。まるで私は病人扱いです。元信者のTさんは、私が何を言っても受け付けないのに、監禁された状況を感謝するように私に強要し、「今まで話せなかったことを、何でも話したらいい、ここはそういう所なのよ」と言いました。
彼女は、私と教会責任者との信頼関係を壊そうと意図してでもいるかのように、かつて彼女が責任者からきつく言われて怨んだ内容を、いかにも統一教会の人は不遜な人達ばかりだという印象を与えながら話してきました。
また、松沢牧師は、84年、世界日報の元幹部であった副島氏が暴漢に襲われて負傷した事件を、犯人が特定されてもいないのに、「統一教会員がやった」と決めつけ、Tさんは「円和道の団体は統一教会のテロ組織だ」などと言って、統一教会を恐ろしい集団だと話しました。
これらの話は、何も知らない親の不安を煽り、統一教会を悪の組織に仕立て上げ、自分たちが監禁して脱会させていることを正当化させるものでした。私が反論すると、松沢牧師は怒鳴りちらし、統一教会の悪口ばかりを言いました。私が逃げないよう監視役に徹する親の姿を見て、私はまるで親を人質に取られているかのように感じられて、本当に悲しくなりました。私が「ここから出たら訴えてやる!」と言うと、松沢牧師は「訴えられるものなら訴えて見ろ、俺は最高裁までいった男だ。その代わり君も堂々と出てこいよ、俺は恐くない」と脅しました。
父は毎晩お酒を飲み、「統一教会をやめないなら、絶対にここから出さない。6か月過ぎてやめないなら精神病院に入れる。お父さんはヤクザと付き合いがある。統一教会の奴らがおまえを連れ戻しに来たら、ヤクザを呼んで蹴散らしてやる。責任を取るときは指をつめろ。おまえに先に死んでもらうかもしれない」などと強迫し、暴力をふるいました。その姿は、まるで何かに取り憑かれているかのようでした。
このような状態は、松沢牧師が帰った後、毎晩続きました。家で反対していた時より激しく殴られました。私は本当に殺されるかもしれないという恐怖感に襲われ、包丁を捜し出し、一晩抱いて寝ました。「ここから解放されるのは、私が瀕死状態になったときかもしれない」と深刻になりました。翌朝、母が包丁(注:包丁といってもプラスチック製で、よく切れない包丁)がないことに気づき、弟と一緒になって取り返そうと引っ張り合いになりました。その際、弟がケガしてしまいました。弟を傷つけたことに私は責任を感じ、最後の手段として、ツナ缶のふたを隠し持ちました。もし自分の身を守るのにこの方法しかなくなった時は、ツナ缶のふたで手首を切るつもりでした。
閉鎖された環境で、すべての人から批判され、信じるもののすべてを奪おうとしてくるのですから本当に苦しく、この環境から抜け出たくて仕方がありませんでした。
そんな中で夢を見ました。修練会の班長が出てきて、「『本性で暮らす』の何ページ何行目に書いてあるでしょう!」と叱られたのです。翌日、元信者に頼んで『本性で暮らす』という本を持ってきてもらい、夢で教えられた部分を読むと、批判されてきた内容の答えが載っていたのです。また、文先生が弟子を従えて歩く姿も夢で見て励まされました。
そうかと思えば、ゾンビのような悪霊が私に覆い被さって来ようとするので、それを思いっきり刀で突き刺したのに、すぐ二体目のゾンビのような悪霊が現れて襲って来るので、必死に刀で突き刺すという恐ろしい夢でした。
監禁を黙認する警察に失望
監禁されて20日経った頃、セールスの人がブザーを押しました。私は玄関まで走り「助けて!」とドアを叩きました。その人は、すぐ警察を呼んでくれましたが、私は弟に押さえ付けられ、部屋の中で大騒ぎするだけでした。母が外で警察官に「親子問題です」と説明すると、警察官は帰ってしまったのです。
父は「わざと警察の近くでやった。そうすれば95%の人が脱会するそうだ」と言い、その言葉で牧師たちの指導を受けているのがよく分かりました。わざと警察の近くに監禁場所を設けるのは、警察も助けてくれないことで信者が絶望するなど、心理的効果を狙ってのことなのでしょう。
監禁30日目頃から松沢牧師の顔色が悪くなり始めました。ついに元信者だけが来た日、私は「聖書批評学」が指摘する聖書の矛盾点について質問しました。元信者らは、福音派の松沢牧師から「聖書は一字一句間違いない」と教えられていたことを覆されて戸惑っている様子で、返答ができないまま帰りました。その後、松沢牧師がやって来て、苦し紛れの解答をしました。
監禁35日目頃、ついに松沢牧師は胆石の手術のため入院しました。牧師が入院したことから、私は「監禁から解放されるかもしれない」と期待感に胸を膨らませました。しかし期待は裏切られ、Tさんが高澤守牧師(単立・神戸真教会)を新たに監禁場所に連れて来たのです。親が頼んだ牧師が来られないのなら、それで終わるのが普通です。私は別の牧師が来たことに、とても落胆しました。
高澤牧師はその時、90日間の自動車免許停止期間中で、大きなバックに統一教会批判の資料を詰め込み、神戸から電車でやって来ました。高澤牧師は統一原理がよく分かっていないのに、「自分は反対牧師を21年やって来たから完成級の反対牧師だ」などと、やたらと統一原理の用語を使いたがる牧師でした。
そして「文鮮明の戸籍謄本、36家庭(祝福家庭)のリスト、統一教会を脱会した人の文章、昔の『原理解説』も持っている」と自慢し、「去年は24人、おととしは21人、統一教会をやめさせた」と話しました。高澤牧師は「力づくでも脱会させるぞ」という雰囲気に満ちており、教理批判よりもスキャンダラスな話題を得意とし、卑劣な話をしました。そして「あんたの他に今、同時に5人やっている」と他の監禁場所とかけ持って回りながら、そのメンバーが話した内容、偽装脱会して逃げた信者の話などをしました。
偽装脱会の話は、「こういうケースもあるから油断するな」と、まるで両親を教育しているようにも聞こえました。また、広島や東京にも行き反対活動をしていることを自慢し、「昨日は東京に行き、弁護士集会に参加してきた」と言いました。私が「弁護士の中に山口、東澤という人がいるでしょう」と言うと、牧師は「東澤っていうのは知らないけど、山口広っていうのと伊藤っていうのがいる」と言いました。そして「自分は統一教会から命を狙われている。二回も襲われた」と言い張る被害妄想家でした。
高澤牧師から文先生の誹謗中傷を毎日平均3時間ほど聞かされましたが、牧師は私が反論すると大声で怒鳴りだし、祈祷もせずにさっさと帰って行くこともよくありました。
私は監禁から逃げ出すチャンスはないかと必死でした。監禁43日目頃、玄関の内鍵を外し、ドアのわずかな隙間から助けを求める手紙を投げました。無謀な賭けでしたが、階段を通った人が手紙を読んでくれるのを期待したのです。ところが父に見つかり、さんざん叩かれました。父はその手紙を高澤牧師に見せ、牧師は「まだ逃げようと思っているのか」と怒鳴りました。脱会するまで続く無期限の監禁を、牧師は「話し合いだ」と言い、夫に連絡さえ取らせないようにしておきながら、「婚姻届は後で訴訟し、ちゃんと無効にすることができる」と平然と言ってのけました。私の心は深く傷つきました。
手紙で大騒ぎした3日後、たまたま住所を確認記入するために警察官が訪問して来ました。その時、私と母の二人きりでした。私は警察官に「助けてください、監禁されています」と騒ぎました。警察官は「落ち着いて下さい、部屋の中でお話を伺います」と言い、部屋の中に入って私の話を聞いてくれました。
私は、「親子の話し合い」と言っているけど、実際には牧師や元信者が介入して来ていること、約2か月近くも一歩も外に出られないことを訴えました。警察官は「家族だけで話し合うのが一番です」と言い、私が連絡を取りたい住所と電話番号(豊中教会の住所と電話番号)を聞き、母からも父の連絡先を聞いて「上司と相談し、また来ますから騒がないで下さい」と言って帰りました。私は監禁から解放される方向にいくのではないかと期待しました。
ところが、連絡は父の方にだけ行ったようで、父は城東警察署に呼ばれ、一方的に事情を話し、警察官は「宗教問題に口を挟むことはやめます」と言ったとのことでした。密室の中で悲惨な事件が起きてもおかしくない状況下で、二度も警察官が来たのに助けてくれなかったことに、私は本当に失望しました。
親の不安を煽り、監禁継続させる牧師
私が騒いだせいか、マンションの大家さんが来て「出ていってくれ」と言いました。ところが父に言いくるめられてしまいました。だれが来ても、何が起こっても監禁から解放されないのを見て、私は「どうにでもなれ!」という自暴自棄の思いに襲われました。カーテンに火を付け、騒ぎを起こせば、ここから出て行けるかもしれないとも思いました。しかしマンションの住人に被害が及ぶし、また「統一教会の人間はこういうことをする」と悪く言われることを思うと、それも悔しくて、思いとどまりました。
監禁55日目を過ぎて、私が少しおとなしくなったためか、日中は母と二人になるようになりました。私は、母を暴力的にでも押し倒し、出て行こうかと思いました。普通ならば思い浮かばない考えが、自然と浮かぶような異常な環境だったのです。
私は、神様に必死に祈りました。高澤牧師が統一教会批判をして帰った後、たまらなくなって壁を叩いて泣きながら、文先生がメシヤであることを大声で証し続けました。そうすることでしか、自分の気持ちを抑えることができませんでした。壁を叩くうち、右手が青くグローブのように腫れあがり、力が入らなくなりました。内心「これで母に暴力を振るうことができなくなって良かった」とも思いました。
監禁80日目頃、統一教会をやめようとしない私に父は苛立ち始め、母が買い物に出かけている間、父から殴られました。私は後ろに倒れ、ベランダの出入り口のワイヤー入りのガラスが割れました。それから20分間ほど髪の毛を引っ張られ、蹴られ続けました。密室で暴力を振るった後で、父は「あと2週間だ、あと2週間でやめてやる」と言いました。そして、私に「詫び状を書け」と言い、書かされました。買い物から帰って来た母は「それならあんた(父)が牧師に連絡しなさいよ」と言いました。
翌日、父が松沢牧師に連絡を入れ、私は「これでようやく解放される」と思いました。ところが父は松沢牧師から説得され、約束を撤回したのです。
その翌日、高澤牧師が来たとき、私は母に「松沢牧師に何て言って電話したの」と聞くと、母は「牧師さんが来てくれないけど、どうなっているんでしょうかと聞いただけ」と言いました。マンションの外にTさんのお父さんも来ていたようで、私の父に対し「脱会説得(監禁)を諦めたらいけない」と説得していた様子でした。私は「あと2週間」といった父の約束が、私の関係ないところで話し合われ、完全に覆されたことに失望しました。
高澤牧師は「この家は、弟さんが大学へ行ってお金が大変だから、うちの教会の人に頼んだらみんな心のやさしい人達ばかりだから(監禁のために)支援金を出してくれるよ。それで1年でも2年でも分かるまでやったらいい」と言い、これまで4回監禁されて脱会した元信者の話や、10回監禁されてやっと脱会した元信者の話をし、私が逃げても何度でも監禁をやると言って来ました。
そして、高澤牧師は「今この子を外に出したら、さっさと韓国へ行きますよ。統一教会はそうなっているんだ」と両親の不安を煽り、さらに監禁を続行させようとしました。私はたまりかねて「あなたはうちの家を和解させに来たのか、分裂させに来たのか、どっちなんだ」と言うと、高澤牧師は「どっちでもない」と言い返すのです。私は身も心もボロボロでした。
監禁90日目頃、高澤牧師の奥さんが手術のため入院しました。高澤牧師は来なくなりましたが、その代わりにTさんが尾島淳義氏を連れてきました。尾島という人物は、統一教会関係の本をたくさん読み、アラ探しばかりしている人でした。
尾島氏は、西日本福音ルーテル教会の青谷教会信徒ですが、自分の教会を「クルーテル教会」「ルーシェル(悪魔)教会」と言うような人でした。そして「今の統一教会問題は、既成教会が問題です」と言いました。「どうしてそう思うのか」と聞くと、尾島氏は「キリスト教会は、統一教会の人が訪ねて来ても異端視しシャットアウトする。牧師だからといって心が広いわけではない。自分の教会と統一教会とどちらが魅力あるかと比べると、とても自分の教会に人が来てくれるとは思えない」と言いました。そして「人がたくさん伝道される統一教会がうらやましい。私はビデオセンターにも行ったことがある」と言いました。どういう動機でそんなことを言うのか分かりませんでしたが、とにかく屁理屈をたくさん言ってくる人でした。
私は尾島氏の批判を聞き、「自分たちの教理が正しいと思っているなら、自分たちの教理を人に広めて伝道したらいい」と言い返しました。そして、「文先生に一度でも会われたことがありますか?」と尋ねました。尾島氏は「一度もない」と答えました。高澤牧師にも同じ質問をしたことがありましたが、やはり「一度もない」と言っていました。一度も会ったことがない人が、なぜ信者も知らないようなことを「知っている」と平気で言い、人を批判することができるのでしょうか? 監禁した統一教会信者に対し、文先生を不信させるための誹謗中傷をさんざん聞かせ、脱会すれば自分の教会信者にしようとする、本当にこれらの人たちは偽善者だと思いました。
監禁100日目頃、私は新約聖書を読み続けて行く中で、イエス様の歩みが文先生の路程と重なっているように思え、それを高澤牧師に伝えると、「あんたと同じようなことを言っている奴がいる」と言って『統一教会の正統性』という本を取り出し、半分ぐらいまで読んだと見せびらかしました。
監禁103日目、隙を見て脱出
監禁102日目の夜遅く、父がお酒を飲んで帰って来ました。お酒の匂いとニンニクの匂いが狭い部屋に充満し、一晩中眠れませんでした。翌朝は日曜日で、私は早朝5時にお祈りをしようと換気扇を回しました。5時40分頃、母が「美千代が、かわいそうじゃないの」と父を叱って牛乳を買いに行きました。日曜日、母は自宅に帰って掃除をするようにしており、牛乳を買って帰って来たとき、またすぐ出かけるつもりだったのでしょう、内鍵だけを閉めて、いつも取り付けるチェーンははずしたまま冷蔵庫を開けたり閉めたりしてパタパタと動いていました。
私は、母がこのままトイレに入らないだろうかと思い、寝たふりをして見ていました。すると本当にトイレに入ったのです。「今しかない!」と思って父を見ると、父は寝ていました。私は急いで玄関に行き、内鍵を開けてそこから裸足のまま、後ろを振り向かず一目散に猛ダッシュで階段を駆け下りました。階段を降りるとき、ずっと部屋に居て歩いてなかったために足が萎えていることが分かりました。慌てて走ったため、右足をひねりましたが、その痛みをこらえながら道路に飛び出し50mぐらい走って、路地に隠れました。すると犬が吠え、住宅街に犬の鳴き声が響きわたりました。「これはまずい」と思って塀を乗り越え、あるマンション一階の廊下に出ました。私は片っ端から各部屋のチャイムを鳴らしたところ、真ん中の部屋から女性が出てきました。私が「すみません、電話を貸して下さい」と言うと、中から若い男の人が顔をのぞかせ「いいですよ」と言ってくれ、中に入りました。私が監禁されていたことを説明すると、「教会の人以外は絶対ドアを開けない」と言ってくださり、外から見えないようにカーテンも閉めてくれました。
その家の方は本当に良い人で、私に良くしてくださいました。見知らぬ人に優しくされ、それまでの苦しかった環境が嘘のように思えて、神様の愛を感じました。しばらくすると豊中教会の親交会の人が迎えに来て下さり、私はやっと自由になれました。
「親子問題」を盾に拉致監禁を正当化
監禁から脱出した後、私は閉塞恐怖症になりました。また、監禁される悪夢を何度も見ました。閉鎖された環境で脱会を強要され、婚姻まで無効にされる恐怖心は、そう簡単に消えるものではありませんでした。しかし時間が経つにつれ、両親に対しても徐々に怖がらずに接することができるようになってきました。それは、ひとえに今の夫のお陰であり、夫との間に生まれた子女のお陰です。
私への拉致監禁の実行は、直接的には家族が行いました。しかし、家族だけの知恵では到底考えられないほど、それは緻密な計画に基づいたものでした。両親は松沢牧師や船田牧師らが行う拉致監禁相談会に行き、そこで牧師や元信者から助言や指導を受けた上で、拉致監禁を行ったことは明らかでした。統一教会に対する悪い噂を聞かされ、真実かどうかの裏づけも取れずそれを信じて、ただ心配する家族の心理をうまく利用して、拉致監禁を行わせているのです。
そして、拉致監禁による強制脱会を「親子問題」にすり替え、法の枠をうまくすり抜けながら公然と行い続けているのです。
人生の大切な3か月半もの期間を監禁によって強制的に奪われ、仕事も奪われてしまいました。統一教会の信仰を捨て去るまで、何度でも拉致監禁が実行されるような世の中では、あまりにも恐ろしくて安心して暮らせません。
私は自宅で話し合いをするよう何度も提案しました。しかし、私の意見は牧師らによってすべて無視されました。このような体験をしたのは私だけでなく、今なお何人もの統一教会信者が同じ拉致監禁被害を受け、信仰を捨てるように強要されているのです。
また、現在も統一教会信者の中には、家族が反対牧師につながっているため、監禁される恐怖心から帰省することも、住所を教えることもできず、精神的苦痛を受けている人がいます。
拉致監禁は人の幸せを奪う恐ろしい行為です。この拉致監禁被害が一刻も早く日本からなくなることを願ってやみません。