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冊子「拉致監禁」シリーズ 1 痛哭と絶望を超えて
4.残された心の傷 塩谷知子
塩谷知子と申します。私は1992年8月25日、韓国ソウルで挙行された「3万双国際合同祝福結婚式」で結婚し、その後、家庭をもち、現在3人の子供がおります。
私は2006年8月、鬱(うつ)病になりました。子育ても家事もできなくなり、真っ暗なトンネルに入ったような心境を味わいました。「この思いは……、どこかで味わったことがある……」
13年前に体験した拉致監禁を思い出したのです。
私は忘れようとしてきた過去にようやく向き合い始めました。そして、その事を通して拉致監禁を体験した私だけでなく、当時婚約者であった主人も大きな心の傷を受けていたことが見えてきたのです。私の体験を報告します。
〈監禁開始〉
1993年12月23日、私は家族から散髪を頼まれ、実家に帰ったときに拉致されました。拉致された後、私は京都のマンションに69日間監禁され、さらに、日本イエス・キリスト教団・京都聖徒教会内に軟禁中の38日目に、何とか逃げることができました。
両親は、最初親族の紹介で、八尾ルーテル教会に相談に行き、そこで聖書の勉強をすすめられ、洗礼を受けたそうです。両親は、その八尾ルーテル教会で京都聖徒教会の船田武雄牧師を紹介されたのです。船田牧師の「相談会」に参加するようになった両親は、そこで船田牧師から指導を受け、拉致監禁を計画するようになったと言います。
また、母の従兄弟で、日本基督教団に所属し、当時、台湾宣教師であった二ノ宮一朗氏も、京都のマンションの中に2週間ほど一緒にいました。
拉致された日のことです。家族の散髪を終えて帰ろうとすると、両親は「駅まで送るから」と言って一緒に家を出ました。数分歩いた路上で、私は、突然サングラスをかけた数人の男女に取り囲まれたのです。
突然のことで何が起こったのかわからず、私は恐怖心で大声をあげ、助けを求めました。しかし、どうすることもできず、そのまま強引に、車に押し込められてしまったのです。
私が押し込まれた車の前には、別の車が1台、さらに後ろにも1台あり、トランシーバーで連絡を取り合いながら走り出しました。見ると、私が乗せられた車の運転席には、親戚の叔父、助手席には父がいたのです。妹と母は、私の腕をしっかり握っていました。
そして、そのまま京都のマンションまで連れて行かれました。車から降りても、私が逃げないように、家族は私の腕をしっかりつかみ、エレベーターの中では、何階で降りるのかさえ見せてくれませんでした。マンションの一室に入れられると、親は玄関ドアに鍵とチェーンをかけ、そのチェーンに、さらに南京錠をかけて、私の靴もどこかに隠してしまったのです。
私は、家族がこのようなことをしたことにショックを受け、あまりの悔しさで、正常な気持ちでいることができませんでした。
こうして、わたしの監禁生活が始まったのでした。
1 痛哭と絶望を超えて
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