統一教会の信者に対する、拉致監禁・強制改宗について、その根絶を求めます
よくあるご質問

Q&A

元信者は「統一教会にだまされた」と発言することがありますが、何をもって「だまされた」と言うのでしょうか。統一教会は本当に人をだましているのでしょうか?

元信者が「だまされた」と発言している理由の一つに、教理問題が深くかかわっていることを知る必要があります。元信者は反対牧師から脱会説得を受けた結果、統一教会の教えが信じられなくなり、「だまされた」と発言しているのであって、統一教会が人をだましているわけではありません。

反対牧師の反統一教会の動機には、聖書をどう解釈するかという宗教上の教理問題があります。その最も大きなものは、キリスト教の教えの根幹にある「十字架贖罪」の問題です。

統一原理では、十字架は本来あるべきではなかったと主張します。神様の願いは、イエスが生きて勝利し、理想家庭、地上天国を築くことであったが、当時のユダヤ教の不信によって十字架で殺害された結果、霊的救いのみで終わったとするのです。反対牧師はこの教えを、「十字架に敵対」(ピリピ3章18節)する “サタンの教え”と批判してきました。

キリスト教が十字架にこだわる理由は、救いの根拠を十字架に置くためです。その十字架を取り除けば、救いの根拠が全くなくなってしまうため、統一教会の存在自体をサタン視するのです。

反対牧師は聖書を用いながら「十字架は絶対予定だ。あなたはだまされている」と統一教会信者を説得し、脱会を迫ってきました。

従来のキリスト教がどのような観点で十字架の救いを信じているのかを知らないまま統一教会と出合い、信仰をもった信者の場合、反対牧師の、聖書を用いて行う教理批判に耐えられる人はほとんどいないでしょう。なぜなら新約聖書を素直な気持ちで読めば、「十字架は絶対予定である」という従来のキリスト教の考え方に影響されてしまうからです。

実際、福音書には、イエス自らが十字架を予告し、その十字架の死は人類を救うためであると述べた聖句が多く記されています。統一教会の十字架解釈と真っ向から対立すると思われる記述です。反対牧師は、そのような聖句を用いて痛烈な教理批判をぶつけてくるのです。ほとんどの信者は、反対牧師の攻撃をかわし切れず、どう解釈したらいいのか混沌とさせられ、やがて脱会に追い込まれてしまうのです。

こうして、牧師の説得で「私はだまされていた」と判断するようになった元信者は、「統一教会の背後にサタンがいる」とまで思うようになります。

ところで、キリスト教では、19世紀以降、「イエス伝研究」が急速に進み、福音書に書かれたイエスの生涯は、「歴史的事実に則して忠実に書かれたものではなく、それはケリュグマ(宣教)のイエス像に他ならない」というのが聖書批評学における常識となっています。

すなわち、十字架が絶対予定であるという記述は、“十字架贖罪”を明確に述べていく必要性から、イエスに関する伝承を集めた福音書記者が、十字架の後でその出来事を回想し、イエスの受難の生涯を弁証的に論証しながら書き上げた“事後預言”にほかならないと言うのです。そのことを知らない信者の場合には、反対牧師の巧みな説得によって脱会に追い込まれるケースが多くあり、それが「だまされていた」という発言へとつながっているのです。これは宗教上の教理論争の問題であり、決して統一教会が人をだまそうとしているのではありません。

しかし、元信者が「だまされた」と発言し、それがマスコミで報道されることで、統一教会は怖いというイメージと相まって、どんな人をも騙してしまう「マインド・コントロール」という特殊手法を用いている、得体の知れない集団であると思われてしまうのです。

この十字架をめぐる教理論争の問題については、太田朝久著『踏みにじられた信教の自由』(光言社)231~245ページに論じられていますので、参照してください。

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