拉致監禁事件の根絶を政府に求む! 全国 拉致 監禁・強制改宗被害者の会

 

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“拉致監禁”の連鎖 パート?、?を読んで 宗教ジャーナリスト 室生 忠さんに聞く(中)

牧師の和解拒否は言語道断

将来の批判懸念、和解勧告に/先送りされた牧師の幇助


○――――○

 ――拉致監禁問題に対する裁判所のジレンマとは具体的に何を指すのか。

 今利夫妻の上告に対する最高裁の判断は、高裁への差し戻しが妥当だ。しかし、最高裁としては差し戻しができないという苦悩がある。

 というのは、今まで何件も拉致監禁問題についての裁判は起きているが、それらは原告、被害者側の主張が全面的に認められたものは無い。

 刑事事件として起訴されたものもないし、連載パート?で取り上げた鳥取教会襲撃事件は民事で勝訴したが、損害賠償は請求に比べ微々たるもので、私は事実上、訴えが認められなかったと思っている。

 つまり拉致監禁問題の裁判では、勝訴だろうが敗訴だろうが、被害者にとって過酷な判断、判決がずっと下ってきている。

 その背景にあるのは、やはり、日本の裁判所に、日本社会では子は親に従うものという価値基準があると考えるからだ。

 それに加えて、メディアが統一教会に関しては全部否定的だから、それに対するおもねりもあるだろう。

 警察や検察が積極的に動かないということも裁判所側に影響を与えている。

 そういう雰囲気にある中で、最高裁が差し戻しを判断すると、拉致監禁問題における裁判所の基本的なスタンスというか、従来の価値判断を変えてしまうことになる。

 これは地裁、高裁も含めて、司法全体の理解を得られるような何か理由がないと、最高裁としてはなかなか差し戻しを判断できない。

 これを仮に差し戻しにすると、反統一教会で固まっているメディアは、一斉に最高裁の判断を批判するだろう。

 そういう状況になると考え、最高裁としては、本来、これはどう考えても差し戻しだと頭では分かっているが、混乱を来したくないとなる。

 しかし、今までと同じように上告を棄却することができるかというと、またこれはできない状況になっている。

 刑事告訴しているものもそうだが、拉致監禁問題についての訴訟が多くなってきている。

 その事件一つ一つをよく見ていくと、原告側の主張には非常に理があり、当然だと考える。原告が怒って当たり前の事件だと。

 大前提である憲法に照らし合わせてみて、信教の自由等から考えると、やはり原告の訴えを認めないことが続くと、今度は逆に、いつか日本の司法に対する国内、国外からの批判が強烈に高まると考える。

 現実に、最近は統一教会に関係ない団体、特に海外からの日本政府に対する批判、警察に対する批判、裁判所に対する批判というのは、日に日に高まっている。

 色々なウェブサイトや有識者の会議やリポートなどにも出てきている。

 裁判所側に、ある種の弱みというか、起こりうる批判に対してエクスキューズを考えなければいけない、という自覚があったのではないか。

 ――単純に最高裁が高裁判決を覆して和解を勧告したのではなく、将来の批判を懸念した部分もあったということか。

 そのうち拉致監禁に対する批判が起こるために「このまま棄却していいものではない。これではいつかしっぺ返し、棄却した代償をいつか自分たちが負わないといけない時期が来る」というものを敏感に感じ取ったのだろう。

 今利さんを拉致監禁した状況というのは酷かったから、この状況で棄却するわけにもいかない。

 しかし一方で、社会の構成要素としての家族というものの単位、子は親に従うもの、という価値基準を維持したいと思う。

 じゃあどうすればいいのかというのを(最高裁が)1年間考えたところ、これは親子の信頼の回復を促して、壊れた家族を戻すという論理付けしかないだろうということになる。そうすれば家族の単位という概念を維持しつつ、壊れた家族を元に戻すための提言をしたということになる。

 状況からすれば、最高裁が和解を勧告したのはそう考えたとみるのが自然だろう。

国内外から高まる批判/判例の流れ変える意識の表れ


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 だが、裁判所側が今利さんに対して、あるいはこの事件に対して、拉致監禁の被害というものの酷さを全面的に認めたという段階には、まだなっていないと思う。

 最高裁という司法のトップにあったのは、これだけ長く続く事件に対して、何らかの判断をして判例を少しずつ変えなければならないという意識だろう。それが和解勧告という形で表れた。

 最高裁というのは、日本社会の価値基準を決めていく大きな柱、母体の一つである。そういう所から出てきた和解勧告であるということを見落としてはいけない。

 つまり、日本の社会全体の流れ、あるいは世界の流れ、そういったものが拉致監禁問題についてノーと言っている。

 あるいは、いつかはノーを突き付けるだろうという考えから出た和解勧告という側面もある。

 現在、日本の裁判所は拉致監禁をどのように捉えているのか。

 その論理構造はどうなっているのか。それを踏まえて、将来、どういった展望が予想されるのかを判決や最高裁の判断から見ていく必要がある。

 ――実質的に違法行為を認めた最高裁の和解勧告を隣人愛を説くべき清水、黒鳥両牧師が蹴ったことについてはどう考えるか。

 最高裁の和解勧告に対して取った清水、黒鳥両牧師の拒否という行動は、言語道断だ。

 清水、黒鳥牧師に関して、本来であれば裁判所が違法性を認めるのが筋だ。

 しかし、最高裁がこの事件で重視したのは、親子の関係の修復だった。牧師たちが事件に関与、幇助したという判断は、次に先送りしている。

 清水、黒鳥牧師にとっては和解勧告を受け入れ難い面がある。受け入れたら、実質的に自分の非を認めたことになり、牧師としての人生を断つことになるからだ。

 それに加えて、高裁までは損害賠償責任を認めていないわけで、勧告を蹴れば、高裁判決が確定するという単純な戦術もあったのだろう。

 本来は差し戻しになるものが和解勧告になった。それに対してノーという態度を取り続けたことは、厳しく批判されることになるだろう。


過去の記事は世界日報社ホームページでも閲覧できます。
http://www.worldtimes.co.jp/special2/ratikankin/main.html

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