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“拉致監禁”の連鎖 パート? 番外編 宗教ジャーナリスト 室生忠さんに聞く(上)
問題の本質逸らした訴訟指揮
昨年12月連載の「“拉致監禁”の連鎖」パート?では、親密な交際を重ね結婚を前にして突然、失跡し一切の連絡を絶ったKさんの居場所を捜した被告の行為が、ストーカー規制法に問われた裁判記録を掲載した(同月27日の東京地裁判決は被告に猶予刑)。宗教ジャーナリストの室生忠さんに判決とパート?について、どう見たのかを聞いた。 (聞き手=堀本和博、片上晴彦)
強制棄教の認識は薄い/公判疑問視のメディアも
――連載パート?は拉致問題が絡むストーカー規制法違反容疑裁判の傍聴記録です。まず感想から。
事件の筋から言うと、当初から楽観を許さないなという感じを持っていたが、結果はその通りになった。連載は、現場に逐一立ち、見聞したこと考えたことを緻密に書き込んでいる。ただ拉致監禁のテーマを審理から外していこうとする検事側の意向、それにまるっきり沿う形の福士利博裁判官の訴訟指揮の在り方などについて、もう少し記事で厳しい追及があってもいいかなと感じた。
もとより裁判が進行中だということもあって、どういう結果になるか分からない中で、難しい舵取り、状況判断の中での連載であっただろう。そう考えると、今までの連載と同じように立派なリポートになったと思う。
――裁判官の立ち位置についてはいかがか。
この裁判の背景にある、ある種、日本社会における物の見方は、50年前とそう変わってないなと思う部分がある。今回の事件は、基本的にディプログラミング(強制棄教)問題と切っても切り離せないにもかかわらず、検察側はもちろん裁判所まで、ディプログラミング問題とはまったくクロスしない、それに触れないで済ます形で裁判を進め、事件の本質そのものを結論ありきの意図的な視点で処理していった。
現在の裁判所の物の見方、ディプログラミング問題についての認識の在り方は以前と比べ進んでいないし、ある意味、逆行に近いという感じもする。
――今回の「ストーカー事案」は、裁判官が「特殊な事情がありますね」ということを、弁護士、検察の懇談の場で言っていたと聞いている。じゃあ、そういうことも審理されるのかなと思っていたが、いざ公判が始まるとまったく触れない展開になった。
「ディプログラミング問題の絡みがあると聞いている」あるいは「そういう雰囲気を感じる」というのは、福士裁判官の本音がそこに出たということだろう。その段階で、弁護側がもっと詰めておれば、ああいう訴訟指揮になったかどうか。結果は分からないが。
――室生先生は、これまでも拉致監禁を終わらせるポイントの一つは司法の姿勢、判断にあると指摘してこられた。一審判決から司法の判断をどう見られるか。
今のところ厳しいなという感じがする。
米国でも、ディプログラミング問題は司法が違法と引導を渡して根絶された。日本における拉致監禁推進者側の主張、言い分の土台をなしているのは、警察や司法が拉致監禁問題に触れず、全体的に統一教会に対しては姿勢が厳しいということだ。監禁派が色々な戦術を組み立てたり、行動するのも、それを土台にしている。
メディアがそれに連動し、社会はそのメディアに引っ張られている。連載(172回)で触れていた山本七平さんの指摘にある通りで、そういう構造を見ても、キーポイントになるのは司法の対応であるわけだが、状況は厳しいなと思う。
ただし、個々のメディア関係者に当たってみると、「何かちょっと変な雰囲気があるよなぁ」「通常の裁判としては、ちょっと異例な雰囲気がある、作為的な雰囲気があるよなぁ」という意見が結構多い。訴訟指揮などを疑問視するメディア関係者もいる。
――なかなか厳しい状況ですね。
司法には民事司法と刑事司法があり、そのうち民事は、訴えが自動的に受理され、裁判で様々な議論が交わされ、色々な判例や状況の蓄積がある。民事では裁判所側にダイナミック、ドラスチックな形で判断変更はまだ見られないものの、徐々にだが、全体的な雰囲気というか、方向性は変わりつつあるという予感がある。
また、拉致監禁推進者側が、次々と訴訟を打てるような事案が非常に少なくなっている上に、後藤徹さんのように拉致監禁の被害者自身の方が訴える事案が多くなっていることも大きく影響している。長い歴史の中で見て、民事では少しずつ何かが動いてきているなという印象を受けている。
民事での空気は変化か/既存の裁判制度を悪用
そして、今回見られるように、裁判そのものが、統一教会の信者に対してマイナスになり、事の本質を逸らすような方向の訴訟指揮が取られ、なおかつそれに沿う判決が出ている。それらのことを考えると、刑事事件における拉致監禁問題についての扱いは、なかなか前途多難であると言わざるを得ない。
――宗教弾圧には不作為と作為の二つの形態があると前回のインタビューでおっしゃったが、今回のストーカー裁判は後者に当たるということか。
いや、ストレートに後者(作為)の形態であれば、対応もしやすい。裁判自体は行われているわけで、その中での訴訟指揮や判断の仕方が非常に恣意的であり、先に結論ありきで、一方に偏った審理と判決がなされている。そういう形なので、作為と不作為のちょうど中間ぐらいになっている。
――判決自体は不当判決と言っていいのか。
明らかに不当判決だから、裁判官が裁判官としての仕事をやっていないという意味では不作為だ。ただ作為的に、具体的に弾圧を加えていくという形にまでなっているかというと、厳密に言うとそう言い切れない部分がある。しかし、裁判官による、あるいは検察による巧妙な作為的弾圧、つまり日本における既存の裁判制度を悪用し便乗した形での、巧妙な弾圧なんだという言い方は可能だ。私も、それに近いかなという感じはしている。
ただ、私が言った「作為による弾圧」というのは、現実的に国家権力がその方法や機構を作り出し、あるいはそれすらもやらないで、具体的に武力その他を使って弾圧するという場合だ。
――戦前の大本教団に対してのような弾圧か。
そうだ。だから日本のように高度に民主化された近代国家における社会では、新しい形の作為による弾圧というのは、おそらく今回のようなケースでなされていくのだろうなと思う。そういう意味では、多少語弊はあるが、新しい発見と言える。(〈中〉は9日付10面掲載)
【お知らせ】
(1)室生忠氏の新著『大学の宗教迫害〜信教の自由と人権について』(日新報道)が2月8日、全国書店で発売予定です。
(2)小紙連載「“拉致監禁”の連鎖」は、これまで掲載のパート?〜?の全172回の記事と写真、連載関連の記事とインタビューなどを世界日報HP(ホームページ)で無料公開中です。アドレスはhttp://www.worldtimes.co.jp また、グーグルなどで「拉致監禁の連鎖 世界日報」と検索しても読めます。
昨年12月連載の「“拉致監禁”の連鎖」パート?では、親密な交際を重ね結婚を前にして突然、失跡し一切の連絡を絶ったKさんの居場所を捜した被告の行為が、ストーカー規制法に問われた裁判記録を掲載した(同月27日の東京地裁判決は被告に猶予刑)。宗教ジャーナリストの室生忠さんに判決とパート?について、どう見たのかを聞いた。 (聞き手=堀本和博、片上晴彦)
強制棄教の認識は薄い/公判疑問視のメディアも
○――――○
――連載パート?は拉致問題が絡むストーカー規制法違反容疑裁判の傍聴記録です。まず感想から。
事件の筋から言うと、当初から楽観を許さないなという感じを持っていたが、結果はその通りになった。連載は、現場に逐一立ち、見聞したこと考えたことを緻密に書き込んでいる。ただ拉致監禁のテーマを審理から外していこうとする検事側の意向、それにまるっきり沿う形の福士利博裁判官の訴訟指揮の在り方などについて、もう少し記事で厳しい追及があってもいいかなと感じた。
もとより裁判が進行中だということもあって、どういう結果になるか分からない中で、難しい舵取り、状況判断の中での連載であっただろう。そう考えると、今までの連載と同じように立派なリポートになったと思う。
――裁判官の立ち位置についてはいかがか。
この裁判の背景にある、ある種、日本社会における物の見方は、50年前とそう変わってないなと思う部分がある。今回の事件は、基本的にディプログラミング(強制棄教)問題と切っても切り離せないにもかかわらず、検察側はもちろん裁判所まで、ディプログラミング問題とはまったくクロスしない、それに触れないで済ます形で裁判を進め、事件の本質そのものを結論ありきの意図的な視点で処理していった。
現在の裁判所の物の見方、ディプログラミング問題についての認識の在り方は以前と比べ進んでいないし、ある意味、逆行に近いという感じもする。
――今回の「ストーカー事案」は、裁判官が「特殊な事情がありますね」ということを、弁護士、検察の懇談の場で言っていたと聞いている。じゃあ、そういうことも審理されるのかなと思っていたが、いざ公判が始まるとまったく触れない展開になった。
「ディプログラミング問題の絡みがあると聞いている」あるいは「そういう雰囲気を感じる」というのは、福士裁判官の本音がそこに出たということだろう。その段階で、弁護側がもっと詰めておれば、ああいう訴訟指揮になったかどうか。結果は分からないが。
――室生先生は、これまでも拉致監禁を終わらせるポイントの一つは司法の姿勢、判断にあると指摘してこられた。一審判決から司法の判断をどう見られるか。
今のところ厳しいなという感じがする。
米国でも、ディプログラミング問題は司法が違法と引導を渡して根絶された。日本における拉致監禁推進者側の主張、言い分の土台をなしているのは、警察や司法が拉致監禁問題に触れず、全体的に統一教会に対しては姿勢が厳しいということだ。監禁派が色々な戦術を組み立てたり、行動するのも、それを土台にしている。
メディアがそれに連動し、社会はそのメディアに引っ張られている。連載(172回)で触れていた山本七平さんの指摘にある通りで、そういう構造を見ても、キーポイントになるのは司法の対応であるわけだが、状況は厳しいなと思う。
ただし、個々のメディア関係者に当たってみると、「何かちょっと変な雰囲気があるよなぁ」「通常の裁判としては、ちょっと異例な雰囲気がある、作為的な雰囲気があるよなぁ」という意見が結構多い。訴訟指揮などを疑問視するメディア関係者もいる。
――なかなか厳しい状況ですね。
司法には民事司法と刑事司法があり、そのうち民事は、訴えが自動的に受理され、裁判で様々な議論が交わされ、色々な判例や状況の蓄積がある。民事では裁判所側にダイナミック、ドラスチックな形で判断変更はまだ見られないものの、徐々にだが、全体的な雰囲気というか、方向性は変わりつつあるという予感がある。
また、拉致監禁推進者側が、次々と訴訟を打てるような事案が非常に少なくなっている上に、後藤徹さんのように拉致監禁の被害者自身の方が訴える事案が多くなっていることも大きく影響している。長い歴史の中で見て、民事では少しずつ何かが動いてきているなという印象を受けている。
民事での空気は変化か/既存の裁判制度を悪用
○――――○
しかし、こと刑事になると、統一教会信者が被害を訴え告訴する、つまり原告となる事案が警察、検察によって依然として阻止されている。逆に、今回のように統一教会信者(あるいは統一教会)が被告となるような事案については、すいすい通ってしまう。今回も、報道陣を引き連れ、それに便乗する形で、異常と思われるような電光石火の家宅捜索をやって、パソコンなど何から何まで押収した。そして、今回見られるように、裁判そのものが、統一教会の信者に対してマイナスになり、事の本質を逸らすような方向の訴訟指揮が取られ、なおかつそれに沿う判決が出ている。それらのことを考えると、刑事事件における拉致監禁問題についての扱いは、なかなか前途多難であると言わざるを得ない。
――宗教弾圧には不作為と作為の二つの形態があると前回のインタビューでおっしゃったが、今回のストーカー裁判は後者に当たるということか。
いや、ストレートに後者(作為)の形態であれば、対応もしやすい。裁判自体は行われているわけで、その中での訴訟指揮や判断の仕方が非常に恣意的であり、先に結論ありきで、一方に偏った審理と判決がなされている。そういう形なので、作為と不作為のちょうど中間ぐらいになっている。
――判決自体は不当判決と言っていいのか。
明らかに不当判決だから、裁判官が裁判官としての仕事をやっていないという意味では不作為だ。ただ作為的に、具体的に弾圧を加えていくという形にまでなっているかというと、厳密に言うとそう言い切れない部分がある。しかし、裁判官による、あるいは検察による巧妙な作為的弾圧、つまり日本における既存の裁判制度を悪用し便乗した形での、巧妙な弾圧なんだという言い方は可能だ。私も、それに近いかなという感じはしている。
ただ、私が言った「作為による弾圧」というのは、現実的に国家権力がその方法や機構を作り出し、あるいはそれすらもやらないで、具体的に武力その他を使って弾圧するという場合だ。
――戦前の大本教団に対してのような弾圧か。
そうだ。だから日本のように高度に民主化された近代国家における社会では、新しい形の作為による弾圧というのは、おそらく今回のようなケースでなされていくのだろうなと思う。そういう意味では、多少語弊はあるが、新しい発見と言える。(〈中〉は9日付10面掲載)
【お知らせ】
(1)室生忠氏の新著『大学の宗教迫害〜信教の自由と人権について』(日新報道)が2月8日、全国書店で発売予定です。
(2)小紙連載「“拉致監禁”の連鎖」は、これまで掲載のパート?〜?の全172回の記事と写真、連載関連の記事とインタビューなどを世界日報HP(ホームページ)で無料公開中です。アドレスはhttp://www.worldtimes.co.jp また、グーグルなどで「拉致監禁の連鎖 世界日報」と検索しても読めます。