声明文 「守れ!人権」
吉村正さん拉致・監禁事件の全貌より
私たちは、「思想信条の自由」 が憲法で保障されている自由な国家、 日本をこよなく愛するものである。その日本で、「思想信条」 が異なるという理由だけで、28歳の吉村正さんに白昼堂々と手錠をかけ、 76日間にわたり鉄格子の入った部屋に閉じ込め、 棄教を迫るといった行為が行われたことに強い憤りを感じる。 こうした行為は、 日本 国憲法の基本精神を踏みにじるものであり、明らかに憲法違反である。
そもそも憲法第31条 「法定手続の保障」 にあるように、 法的手続きを抜きにして何人も人間の生命、 自由を奪うことはできない。 これは近代人権思想の大前提である。 しかし、「統一協会=原理運動 =勝共連合の暗躍を憂慮す北海道の会 (憂慮する会)」の戸田実津男会長らは、そうした法的手続きを一切無視して吉村さんを突如として拉致し監禁したのである。 こうした改宗棄教活動は北海道のみならず全国各地で現在も行われており、 中には、統 一教会 (世界基督教統一神霊教会)の信仰を持っているという理由で6年間も精神病院に入院させられていた例も ある。 私たちはこうした人権侵害を一切、許すことはできない。
また、私たちは今回、 吉村さんの人身保護請求裁判を担当した札幌地裁の対応が、 緊急を要する裁判であるにもかかわらず2ヵ月近くも審理を引き伸ばし、 吉村さんの人権を軽視したことに強い疑問を感じるものである。 昭和62年10月28日の第1回審間で吉村さんは、裁判長の眼前で監禁の事実を訴え、 釈放を切望した。 にもかかわらず本人の法廷での証言を無視し、 何ら法的手続きのない監禁を続行させたことは許しがたいことである。こうした暴挙が裁判所によって容認されることは、民主主義的秩序の破壊を意味するものであり、私たちは裁判所に強い反省を求める。
私たちは決して親子の関係を軽視するものではない。 むしろ、 親子の深い対話と相互理解を望んでいる。 自然な 親子の情愛は幸福の根本だからである。 しかるに、戸田会長ら 「憂慮する会」は、今回の吉村さんの拉致、監禁を 「親子問題」 にすりかえているが、その本質は明らかに思想問題である。 その証拠に裁判では 「親子問題」としな がらも196人の共産党系弁護士が名を連ねている。 私たちは、「親子問題」 を隠れ蓑に、 拉致、監禁して棄教、 改宗を迫る牧師グループおよびそれに加担する共産主義者たちの人権侵害に対して断固として闘う。
1988年1月 吉村正さんの人権を守る会
11月10日、吉村正さんは長期の監禁状態から自力で脱出したため、 すでに伊勢谷俊昭氏によって提出されていた人身保護請求の裁判を取り下げる上申書を十二日札幌地裁に提出した。 吉村さんはこの上申書 によって自らの心境を切々と語った。
私は、昭和62年8月27日から76日間にわたって監禁されていた状態から11月10日午前、自力で脱出し、自由を勝ち取ることができました。 現在、「自由」の価値をかみしめながら心静かにして、 これまでの異常な事態を振り返りつつこの上申書をまとめました。
私は、昭和55年9月に京都大学原理研究会に入会し、卒業後は同研究会の責任者として後輩の指導にあたっていました。
今年8月27日午前10時頃、京大病院の診療後、父親と 「統一協会=原理運動=勝共連合の暗躍を憂慮する北海道の会」(以下、憂慮する と略称する)の関係者と思われる4人の男性により両手両足をつかまれ、無理矢理ジャンボタクシーに乗せられて、そのまま名古屋にある空港に連れてこられました。
車中、手錠をはめられ犯人扱いされたことは非常にショックで「何の権限があってこんなことをするのか」と父に尋ねましたが、「聖書を勉強すれば私がやっている事も分かるようになる」と答えるのみでした。 名古屋の空港にはセスナ機がチャ ーターされており、そのまま北海道に連れていかれました。これまで監禁されていた札幌市豊平区豊平三条二丁目二〇の「豊明住宅」の三号室に着いたのはその日の午後6時頃です。 入った部屋の窓には縦横に鉄パイプが取りつけてあり、事態の異常さを改めて認識しました。
私が責任を持つ京都大学原理研究会のメンバーが心配しているのではないかと気にかかり、やむにやまれぬ思い電話をかけさせてほしいと、 懇願しました。 最初の日だけ、母親が京都大学の寮に電話をしたようでしたが、後はどんなに懇願しても、一切許可されませんでした。 そのことがまず心を痛めたことであります。 監禁状態に置かれて4日目に、「憂慮する会」の戸田実津男会長が姿を現し、断食していた私に「おまえは原研のリーダー格だから簡単には出してやるわけにはいかん。 何年かかっても必ず脱会させる」と、威圧的な言葉を浴びせかけられました。「何年かかっても..・・・・」という戸田会長の言葉に私は、一瞬、この鉄格子の中の生活が何年も続くのかと動揺し断食をやめました。
その後、毎日2人というペースで一人2時間から4時間にわたる説得を受けました。 日本キリスト教団の榎本牧師や十二使徒教会の加藤副牧師、それに元統一教会員の田口民也氏らが交代交代で事務所を訪れ、父親と打ち合わせをしては、私に「統一教会は犯罪者集団である。一刻も早く脱会するように」と強要しました。
私が憂慮する会の不正行為をあくまでも認めない牧師たちに反発し、独善的な聖書解釈に耳をそむけようとすると、父親からなぐられました。
さらに、頭のもうろうとする中、郵便局員の高田新八氏にいたっては、 8時間にわたる脱会強要をしました。 互いに自由な環境の中で、聖書について真理について語り合うことは、 私は拒むものではありません。 しかし完全に自由を拘束された上、一方的な考えを押しつけることに対して、 私の精神的苦痛はつのるばかりでした。
特に私のもとに説得に来る人々は、私や原理研究会の学生を拘束されるべき犯罪者と決めつけ、私が自分の主張を訴える権利をことごとく剥奪した上、「原理の神がいるなら自分を救ってみろ」と侮辱したことに対し、私は強い屈辱と怒りを覚えました。
私が今回の人身保護請求の裁判のことについて知ったのは9月27日、岩城国選代理人が「憂慮する会」 の事務所に来た時です。 すでに請求が出されて10日も過ぎておりました が、両親や戸田会長は私には何も伝えませんでした。 さらに裁判のことが私に伝わると、 「憂慮する会」のメンバーはしきりに私に裁判を取り下げるよう何度も何度も説得するようになりました。
私はこの異常な事態から一日も早く抜け出したいと思い、岩城弁護士に10月13日の準備調査手続きに出席参加できるよう手紙をことづけましたが、その願いは、はかなく消えました。
翌14日、岩城国選代理人の事務所で準備調査手続きの結果をうかがい、同月28日と11月16日の2回にわけて審問を開くことを知りましたが、これから1ヵ月以上も拘束されたままだと思い、スーッとが抜けていくのを覚えました。 さらに裁判自体が私の意思の届かないところで流れてしまうのではないか不安感に襲われました。
10月28日の第一回審問には、 二人の監視人に付き添われて札幌地歳の別室で待機しました。 今回も戸田会長は私の口を封じてしまう計画だろう、と半ば諦めていましたが、 審理の始まる午後1時より15分程前に岩城国選代理人に会うことができ、法廷の場に出廷できるよう哀願しました。 岩城国選代理人と裁判官の協議の結果、出廷が許され、かねてより準備していた文章をしっかり手に握り発言の機会を待ちました。
法廷での発言は岩城国選代理人が代弁する形になりましたが、短いながらも私の意思ははっきりと裁判長に伝わったと確信しました。また、原告側の弁護団から仮釈放の上申書が提出されたので、この監禁状態から抜け出せると思い安心しました。 しかし、何日たっても解放される気配はなく焦燥感に襲われました。 私は、今後どうすべきか内心神に問い続けました。 そんな中で、 この裁判を親子の問題にすりかえようと している陰謀があるのではないか、 という疑念が起こりました。
それは、父は戸田会長をかばい、 父が頼んでやってもらっていると法廷でも主張していましたが、今までの父の言動からこのような強硬なことを父の判断だけでは到底できないと思ったからです。 異常なことをしていることに父自身も気づいていないことに、私は強い戦慄すら覚えました。
10月28日の審問以後、表面上、自由にさせているようにみせていましたが、事実は逆で鍵を完全に閉め、一日中両親がピッタリと私に付いていました。 交わす言葉もなく、ただ奇妙な時間が流れていたような気がします。 10月29日、私は逃げないという誓約書を書き、裁判所に上申したにもかかわらず、その願いが聞き入れられず、裁判所の判断に失望しました。
その頃から、私は裁判所に任せておけば、延期されるばかりで、 結果は出ないとはっきり確信しました。 これ以上この異常な環境で耐え抜く自信もなく自力で脱出することを心に決めました。 考えたことはもう一 度断食を試み、精神的に限界がきたという演技をして脱出することです。 早速、実践に移し10月30日、 31日、断食して3日目の11月1日、机をひっくり返す、皿を割るなどの暴行に出たことから、 戸田会長は私が精神的に16日まで持たないと判断し、完全監禁状態から、 監視つきの外出が許されるような軟禁状態に置かれたのです。
それで11月4日、5日と次第に父親ないし母親と外出する回数をできるだけ多くしていってこれを続け、 チャンスがあったら逃げ出そうと決意を固めていきました。11月9日一人でジョギングする機会が与えられました。 一度は帰ってきて油断させ、翌日、再びジョギングで外出する機会が訪れたので、この時を逃したらもう二度と自由になれないと思ってそのまま逃げ出しました。
現在、私は完全な自由を得ていますので、 伊勢谷俊昭氏が札幌地方裁判所に提出した私こと吉村正に対する人身保護請求の裁判を取り下げるように上申致します。しかし、私に対して七十六日間にわたって行われ 人権侵害を許すことはできません。
昭和六十二年十一月十二日
吉村正
札幌地方裁判所御中