被害者の声
陳述書
後藤 徹 − 驚愕!12年5ヶ月にわたる拉致監禁 −
2008年4月2日
信仰を捨てさせるために12年5カ月間もの長期にわたって監禁し、集団で精神的・肉体的に虐待する行為は、拷問以外の何ものでもなく、絶対に許すことができません。私は人間としての尊厳を根底から否定されて、人生の貴重な期間を台無しにさせられました。
ところが、監禁に関与した家族や宮村氏は一切の反省もなく、それどころか、宮村氏は荻窪フラワーホームの玄関ドアが南京錠などで施錠されていたことを知らなかったなどと言って責任逃れをする構えを見せているのです。
私が信仰を維持できた理由の一つは、監禁している側の残虐な行いを目の当たりにすればする程、統一教会に反対している宮村氏や私の家族こそが悪の権化であって、自分は死んでもあのような悪の一味には属したくないという思いを強く抱いたことと、不当な監禁現場からいつの日か必ず自由の身となって、この悪質な人権侵害を万人に訴えていかなければならないという使命感を強く持ったためです。
美津子・アントール − 監禁を苦に自殺未遂 −
1999年1月15日
両親は「反対牧師」等に唆され、統一教会は犯罪者集団であると誤解し、しかも、統一教会信者に対する拉致監禁は「保護」「救出」であって違法ではないと信じ切っています。今のままでは両親が再び私を拉致監禁してくることは間違いありません。
清水牧師は「保護」「救出」という美名の下、私に対する拉致監禁を両親に指導し、しかも監禁下の私に対して暴行脅迫を行い、暴言を吐き連ねるなど、悪質な違法行為を繰り返しました。監禁中に3度も自殺したいという衝動に駆られ、親子間の信頼関係をズタズタに引き裂かれるなど、私は清水牧師から途方もない精神的損害を被りました。清水牧師に二度とこのような悪質な犯罪行為をさせないためにも、精神的・物質的損害についてはしっかりと責任をとって頂きたいと思います。
今利 理絵 − 監禁前に警察に根回し
1997年9月1日
4月10日、また引っ越さなければならないという話になりました。後日、この時の引っ越しの理由を聞いてみると、警察が動いていて、横浜周辺は危ないからということでした。
私を拉致する際に、父は事前に宮前警察に挨拶に行ったということも、後から聞きました。父は「警察からは『穏便にお願いしますね』と言われたのに・・・」と警察の動きにとてもショックを受けていました。
T − 「死にかかっているゴキブリ」と牧師が侮辱 −
1998年10月2日
6月10日、高澤牧師が現れ、1時間ほど話して行きました。高澤牧師はこの時、私のことを「6月のナメクジ」「屋根裏のネズミ」「死にかかっているゴキブリ」等と言って侮辱しました。
この後、高澤牧師は約1週間ほぼ毎日監禁場所に現れ、その後は2日に1度のペースとなり、最後は週に1・2度現れるようになりました。この日以降7月下旬まで、高澤牧師は監禁場所に来る度に私の背中を叩いたり、膝を音がするほど叩いて行きました。
また、大江平三郎という人が週3回ほど監禁場所に来ました。その他、高澤牧師の紹介で元統一教会員が全部で8人監禁場所に現れました。高澤牧師の話では、私を含めて一度に7人監禁していたそうです。ある時、彼は「オイ、マンションの鍵をいくつ持っていると思う?」と言って自慢そうに話してきました。
7月初旬頃からは神経性の胃痛に悩まされました。この胃痛は監禁期間中続きました。7月の終わりに、私は膀胱炎になりました。この時、高澤牧師は「絶対に病院なんか連れて行かないからな」と言って、私は病院に行かせてもらえませんでした。
7月か8月、父は鳥取の警察に呼び出されて事情聴取を受けに行きました。帰ってくると、父は「大丈夫だった」と言いました。私は父が事情聴取を受けたので、間もなく私も呼び出されて解放されるものと思っていました。しかし警察からは何の連絡もありませんでした。
O・K(男) − 牧師が人の親を「馬鹿」呼ばわり −
2003年3月21日
信仰を持たない者が信仰を持つ者を理解することは難しいことだと思いますが、アメリカを始め全世界の多くの国々では信仰の上に善を求めて生きていくことは当然のこととされており、信仰の違いの故に監禁されて脱会を迫られるなどということは、まったくあってはならないことだと思います。両親のような素人が、計画的に、すべての窓、ドアに通常以上の鍵をかけ、部屋全体を監禁用にリフォームすることなど不可能だと思います。こうした事実からも、清水牧師の指示により監禁が行われていることは明らかです。
私は、このようなあからさまな人権侵害が、何年間も批判されることなく続いていることに強い憤りを覚えます。このようなことを2度と繰り返すことができないよう、清水牧師等に対して厳しい判決を望むものです。
高須 美佐 − 監禁後、「家族」とか「親」という言葉を聞いただけで吐き気が −
2003年4月11日
2001年1月末に会社を辞め、しばらくのんびりする事にしました。しかし家に1人でいても不安な気持ちは解消されず、何かできることはないかと思っていたところ、横浜女性フォーラムで自助グループをバックアップしている事を知りました。2月に全国から自助グループ関連の人たちが集まる「アディクション・セミナー」に参加したところ、知り合いの脱会者が来ていました。彼女はアルコール依存症の自助グループにも参加しているとの事でした。
私が「拉致監禁の自助グループを作りたい」と言ったところ、彼女は1ヶ月ぐらい前にカウンセリングを受け、アルコール依存症の原因が拉致監禁にあることに気がついたとの事でした。彼女は私より4年ほど先に脱会していて、当時、「こういうやり方はやめてください」と訴えていたのですが、自分の後、監禁によって苦しんでいる人の話を聞かないので、自分だけの問題として蓋をしてきたのだそうです。しかしアルコール依存という形で病状は現れ、その原因が分かった矢先に私と偶然にも会うこととなったのです。
このように、監禁によるPTSDで苦しんでいる人は大勢いると思います。今は私自身もまだ心療内科に通い、仕事をするのも難しい状態です。拉致監禁によって受けた傷は7年以上経った今でも根深く残っているのです。今はホームページを通して監禁問題を訴え、多くの人の苦しみがやわらぐ事を願っています。
東條 久美子 − 結婚している夫婦を監禁 −
2010年4月14日
あの半年間の拉致監禁(軟禁)に何の意味があったのでしょうか。
当然、退職の時期でもなく、働くのが常であった父は、その後も元気に仕事を続けていました。姉の小1の娘はすでに大学生になりました。月日のたつのを感じながらも、「あの事件がなかったなら」という思いは、今でもあります。事件以降、「また同じようなことが起きたら・・・」という思いのなか、私は大好きな黒澤の家族のことを疑いながら、帰省していたことは事実です。
未だに、このような事件が日本のどこかで起きているということに憤りを感じるばかりです。
幸いにして、私たち夫婦はその後、子供も授かり、幸せな家庭生活を送っていますが、精神的にも健康的にも、このことが原因で大変な状態の方々がいる事実を知らないでいるわけにはいきません。
本当に信じがたい、悔しい半年間の現実ではありましたが、この経験が今、私たち以上に苦しんでいる人たちの役に立ち、またこの拉致監禁に携わっている本当の意味で人権を無視した反社会的な人たちに対して、訴えることができるのであればと思い、この文を陳述書とさせて頂きます。
小出 浩久 − 末期がん患者の担当医を監禁 −
1996年10月1日
7月初め、宮村氏の仲介で有田芳生氏と週刊文春記者の取材を受けました。
断れない立場で、有田氏らが描くストーリーに話を合わせ、事実を曲げて答えるしかないこともありました。
取材後、有田氏らは「1年間も閉じ込められていて、よく耐えられましたね」と言ってきました。
小林 宗一郎 − 警官が家族に圧倒されて立ち去る
1999年12月9日
父が「こいつは統一教会で狂わされているんです。親子の問題なんです」と言いましたが、警察はこれを聞かず、「どうしたんですか?」と私に尋ねてきました。私が「拉致されたんです。
基本的な人権があるんだからここから出して下さい」と言いました。すると警官は「本人がこう言っているし、本人の意思もあるんだから、降ろしたらいいんじゃないんですか」と言いました。
すると私の拉致を手伝った見知らぬ男女7、8名がその警官を取り囲み、「こいつはマインドコントロールされているんだ」と一斉に叫びました。その警官はこれに圧倒され、遂に「行っていいです」と言いました。