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被害者の声


陳述書

高須 美佐 − 監禁後、「家族」とか「親」という言葉を聞いただけで吐き気が −


陳述書(要約)

横浜地方裁判所 御中
2003年4月11日

横神奈川県横浜市
高須美佐

一.はじめに

 最初に断っておきますが、私は統一教会を既に辞めた者であり、統一教会の活動には反対している立場です。統一教会であることを偽って活動する事には疑問があり、とても問題だと思っています。しかしそれ以上に、どういう立場の人間であろうと拉致監禁をしてもいいということにはならないと思いますし、そうされた事によって精神的に大きな被害を受けた事をここに書き記したいと思います。

二.拉致の経緯

 私は1995年5月25日木曜日、世界基督教統一神霊協会の関連団体である世界平和女性連合の一員としてフィジーから日本に帰ってきました。両親が迎えに来てくれ、その日は実家に帰りました。本来ならすぐに前の職場に顔を出したかったのですが、両親の出かけてほしくなさそうな雰囲気を感じ、三日間はおとなしく家にいました。しかし両親はフィジーでの様子を知りたがるふうでもなく、何か重苦しい雰囲気がありました。
 5月29日月曜日に前の職場に報告に行き、その後、派遣会社に仕事がしたい旨を伝えました。それから両親に家に帰る事を伝えると、駅まで車で迎えにきてくれ、そのまま妹が新しく借りたアパートに一緒に行くことになりました。
 アパートに近づくにつれ身体中に蕁麻疹ができ始めました。拒絶反応のようなものを感じながらも仕方なく部屋に入ると、両親が「ここで話し合いがしたい。家だと電話など、いろいろ邪魔が入るので」と言い出しました。部屋を見回すと元々あった鍵のほかにも厳重に鍵がかけられており、ようやく監禁された事に気が付きました。私はパニック状態になり、「この環境ではとても話をする精神状態にはなれない。ここから出してほしい」と何度も訴えましたが、聞き入れられませんでした。

三.監禁、脱会強要

 監禁されたのは、神奈川県横浜市泉区弥生台の「ルミアール弥生台」というアパートの1階でした。6畳1間、4畳半1間の2DKで、トイレは中から鍵がかけられないように、鍵が壊されていました。
 次の日、あまりの精神的圧迫感から6畳間の鍵を力づくで壊してしまいました。そのときから窓は網戸になり、完全な監禁状態ではなくなりましたが、精神的には身動きが取れない状態でした。
 何をする気力もなく、統一教会すらどうでもよく思えてきているのに、両親は「話し合いたい。お前の話を聞かせてほしい」の一点張りでした。そもそも実家に4日間もいたのに全く話を聞こうともしなかったのに、ここで話し合いたいと言われても話す気にはなれませんでした。
 その時の世界平和女性連合オセアニアの中心者の考えでは、親が反対牧師と繋がっている人はメンバーから外すというものだったので、統一教会に戻ってもフィジーに戻る事はできないという思いがありました。その時点では統一教会を辞めようとは思っていませんでしたが、ここまで親が反対している以上、親を説得できなければ統一教会には戻らないという覚悟ではいました。
 そんな私の気持ちなど全く無視して話し合いを続けようという両親とはいつまでたっても気持ちが通じず、ひたすら虚しい日々が過ぎていきました。
 2週間ぐらい経った頃、死にたいという思いがわいてきました。親に裏切られ、この親のために生きている必要はないと思いました。しかし実際には2週間、動けない状態で体力も落ち、やる以上未遂に終わりたくないと考えたら、死ぬ事もできないのだという失望に変わりました。
 8月の半ばぐらいだったでしょうか、長い監禁生活の中で時間の感覚もなくなった頃、黒鳥さん(日本基督教団戸塚教会の黒鳥栄氏)が現れました。牧師でカウンセラーということでしたが、生理的に拒絶反応が出て、恐怖で固まってしまいました。しかしそんな私の状況など全く分からないようで、最初は優しい声でゼリーなどを差し出し、一緒に食べましょうと言ってきました。私が応じないのを見ると突然態度を変え、持ってきた資料を机の上にドンと置いて、統一教会のスキャンダラスな悪口を言い出しました。
 私としては監禁の原因ともなった統一教会と名のつくものには一切触れたくもないし、たとえ現役の統一教会信者が来ても話したくないような精神状態だったのに、カウンセラーとしてそんな事にも気がつかないのかという気持ちでした。最近になって分かったことですが、黒鳥さんは牧師の資格はなく伝道師であるとのことでした。

四.監禁場所の移動

 10月初めごろの夜、黒鳥さんと、以前に2〜3度来たことのある脱会者のNさんが来て、「ここではもう難しいから他の場所に移る」と言いました。まだこんな事が続くのかという思いから必死の抵抗で床にしゃがみ込んだ私を、母親とNさんが片腕ずつ持って無理やりアパートから引きずり出し、車に押し込めました。車は父が運転をして、助手席に黒鳥さん、後ろの座席に母とNさんに挟まれて私が真ん中に座らされました。前に1台、道案内で車が走っていました。
 あるマンションに着き、顔は見ませんでしたが、待っていた男性が「佐藤君、ご苦労さま」と言うのが聞こえました。「待っていた男性」は、日本基督教団太田八幡教会の清水与志雄牧師で、「佐藤君」というのは、今利理絵さんが自宅から群馬に拉致されたとき、運転手を務めた男性です。
 次の日の夜遅く、脱会者を6人引き連れて清水牧師が現れました。統一教会の問題点を話していましたが、聞く気になれないのでボーっと横を見ていたら突然怒り出しましたが、無視し続けました。それよりも清水牧師の言う事に何でも素直にうなずいている脱会者たちの姿が異様に映って、ああはなりたくないと思いました。その日から3日間連続で夜中に現れましたが、私は同じ態度を取り続けました。両親が牧師に頼り切っていて自分で考えようとしない姿を見て、馬鹿馬鹿しくもなりました。
 移動のショックで16日間、無気力状態がひどくなり、固形物が喉を通らなくなりました。しかし周りの人は統一教会員だから断食をしているものと思っていたそうです。何も食べない私に清水牧師は、「いざとなったら入院させて点滴を打てば死なないから」と言い、私は死ぬ自由もないことに再度、失望しました。

五.脱会を決意

 それからは、積み上げられていた統一教会に対する反対の本を読みあさりました。ちょうどオウム真理教の事件をマスコミでよく取り上げていた頃で、組織的な部分で統一教会とよく似たところがあることを感じました。
 統一教会時代にも、「原理は8割しか本当の事は書いていない。100パーセント本当の事を読んだ上で間違いを犯したら罪が重くなるから、全て本当の事を書かないことが許しなんだ」と教えられていたので、理論が間違っているということ自体は、私にとって脱会の理由にはなりませんでした。ただ、先のオウムの件と『マインドコントロールの恐怖』を読んで、わずかながら自分もコントロールされていた事を感じました。
 脱会の決意を決定的にしたのは、統一教会員が統一教会をよくしようと思って上の人に当てて統一教会の問題点を書いたものと、それによってその人が統一教会を辞めさせられたという内容でした。これを読んで、本当に統一教会をいい方向に変えていくのは難しい事を感じ、辞めることにしたのです。
 それが12月半ばごろで、私はすぐに、次の人が入ってくるという理由でそのマンションを追い出されました。その後、親から2つ目の監禁場所は群馬県にあるサンライズ太田というマンションの306号室だと聞きましたが、私の記憶では7階ぐらいだったように思います。

六.他の監禁被害者救済に奔走

 一旦は実家に戻りましたが、最後まで理解してくれなかった両親と一緒に暮らす気にはなれず、一人暮らしをする事にしました。派遣会社に依頼し、1996年2月からの仕事が見つかりました。
 自分自身が監禁生活で苦しい思いをしたので、他の監禁されている人たちが気になり、仕事を始めるまでは週の半分は群馬に通いました。2月中も金曜日には職場から群馬へ行き、月曜日に群馬から職場に行くという生活をしていました。
 清水牧師の統一教会員に対する態度があまりに横柄で、両親にももっと強く責めるようにと言っていたので、ただでさえ閉鎖された息苦しい空間で統一教会員が心を開くはずはないと思いました。なんとかしてあげたいと思って通っていましたが、群馬で泊めてもらっていた脱会者が戸塚に移ることになったので、3月からは行くのをやめました。
 その後は戸塚教会へ通うようになり、礼拝後の父母の会で自分の監禁時の苦しみを伝えて、もうやめてほしいと訴えました。黒鳥さんと2人きりで話した際にも監禁時の苦しみを何度も訴えましたが、「美佐さんの場合は両親が何も言ってくれなかったから分からなかった」「お父さんがとても変わった。あれはお父さんのための保護だったわね」などと言われました。私の監禁時の苦しみはどうなるのかと追求すると、全て親子問題にすり替え、「もともと親子関係が悪かったからしょうがない」と言われました。
 また、落ちこぼれ統一教会員だったというレッテルを貼られ、親達の中には「落ちこぼれ」の私の言う事は聞いても仕方がないと思う人も出てきました。
 本来、監禁は最終的な手段であって、親子の話し合いができる環境を作っていかなければいけないのに、父母の会では「いかに監禁するか」という話し合いがほとんどでした。また1999年2月頃、高塚さんと黒鳥伝道師、清水牧師が裁判で訴えられると、父母の会では「いかに裁判に勝つか」という内容が中心になっていきました。
 他に、この問題を世間に訴える方法はないものかと考えた末、2000年9月からホームページ上で自分の体験談を書くようになり、それを通してネットワークが広がっていきました。

七.監禁によるPTSD

 2000年1月に発覚した新潟少女監禁事件をきっかけに監禁時のフラッシュバックが起こり、不眠症になり、パニック障害もひどくなってきました。9月には会社での人間関係も原因して2週間で1割近く体重が減り、10月には心療内科に通うようになりました。家族とか親という言葉を聞いただけでも吐き気が止まらなくなり、抗鬱剤と精神安定剤、睡眠薬も飲むようになりました。
 2001年1月末に会社を辞め、しばらくのんびりする事にしました。しかし家に1人でいても不安な気持ちは解消されず、何かできることはないかと思っていたところ、横浜女性フォーラムで自助グループをバックアップしている事を知りました。2月に全国から自助グループ関連の人たちが集まる「アディクション・セミナー」に参加したところ、知り合いの脱会者が来ていました。彼女はアルコール依存症の自助グループにも参加しているとの事でした。
 私が「拉致監禁の自助グループを作りたい」と言ったところ、彼女は1ヶ月ぐらい前にカウンセリングを受け、アルコール依存症の原因が拉致監禁にあることに気がついたとの事でした。彼女は私より4年ほど先に脱会していて、当時、「こういうやり方はやめてください」と訴えていたのですが、自分の後、監禁によって苦しんでいる人の話を聞かないので、自分だけの問題として蓋をしてきたのだそうです。しかしアルコール依存という形で病状は現れ、その原因が分かった矢先に私と偶然にも会うこととなったのです。
 このように、監禁によるPTSDで苦しんでいる人は大勢いると思います。今は私自身もまだ心療内科に通い、仕事をするのも難しい状態です。拉致監禁によって受けた傷は7年以上経った今でも根深く残っているのです。今はホームページを通して監禁問題を訴え、多くの人の苦しみがやわらぐ事を願っています。

以上

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