被害者の声
陳述書
東條 久美子 − 結婚している夫婦を監禁 −
陳述書(要約)
2010年4月14日
東條 久美子
1.略歴
私、東條久美子は1962年7月7日、群馬県多野郡にて、黒沢(旧姓)家の次女(4人姉弟の3番目)として生まれました。
1984年夏、渋谷駅の街頭にて、統一教会の女性伝道師に声を掛けられ、渋谷や世田谷区三軒茶屋などで、教会の教えを学び、1985年5月に入教しました。
1988年10月、韓国で行われた国際合同結婚式に参加し、1994年11月に新宿区中落合のアパートで、夫・勉と結婚生活をスタートしました。
2.拉致監禁に至った経緯
拉致されたのは、1996年9月のお彼岸の時でした。秋分の日の連休に、東條家の親族の法事に静岡県湖西市鷲津に、夫・勉と一緒に泊まりがけで出掛けました。
法事のあと、浜松市(当時は引佐郡)三ヶ日町の親戚宅にて、夫と同時に拉致され、別々に監禁されました。
初めて訪ねた親戚の家だったので緊張もあり、その時の様子が普段と違うというのはよく覚えていませんが、夫は異様に感じたとのことでした。
親戚宅でお茶を出して頂き、ひと息ついているところに、その部屋の襖がサーッと開いて、驚いたことに東條の親族ばかりでなく、私の両親はじめ親族も同じ場所からぞろぞろと出てきて、私と夫は、自力ではその状態を動かすには難しく、別々のワゴン車に乗せられ、その後、それぞれの監禁場所に連れて行かれました。私は、抵抗するにも力ずくでは難しく、夫の名前を叫んでいました。その声も届かず、私と夫は引き離され、夫は京都へ、そして私は千葉まで、ワゴン車で連行されました。
私は後部座席に座らされ、隣には母が座り、心配して声を掛けてきたと思いますが、私は話す気力もなく、「いったい何が起きているのだろうか?いま何ができているのか?」などと考えをしながらも、どうすることもできないことを思い知らされ、ふて腐れ状態だったと思います。まさかと思いましたが、こういうことだったのかと改めてショックの大きさを感じました。
その日からさかのぼること3カ月前に、新宿のアパートに1本の電話が入りました。
それは、私が結婚生活を始める前に住んでいた教会の寮に誰から分からないけれども、「実家には帰らないほうがいいですよ」という電話があったというのです。私の家族が反対牧師につながっていて、実行する計画があるというような内容だったと思います。
そう言えば、6月に父の退職祝いにみんなで集まろうという連絡があり、退職にはまだ早いだろうと思いながら、帰省する予定になっていました。帰省予定の朝に「行けなくなった」と連絡を入れると、電話に出た母がやけに慌てていたことを思い出します。
この時も、「まさかわが家族が」という思いがあったので、今回このようなことが現実になりながらも、信じられない現実を受け入れたくない思いだったと思います。
ワゴン車が止まったのは、すでに真夜中でした。団地らしき建物が並ぶ、その1棟の1室が監禁場所となりました。
いつ逃げようとするのかと気にしていたようですが、あえて私は玄関先には近づかずにいました。確かに、普通の鍵だけではなかったと思います。
また6月のことを思い出さざるを得ない内容もありました。それは真夏を乗り越えようとするために用意されていた冷房です。決行が秋になり、暖房が必要な季節になり、暖房器具の相談をしていました。その場所で年越しをすることになりましたので、電気こたつやストーブが運ばれてきました。
このような行動は、自分たちの意志でやっていることを訴えていましたが、なかなか話がすすまず、1カ月以上たった時でしたが、「よく知っている人に来てもらうことにするから」と言われたと思います。やって来たのは、元統一教会員で今ではキリスト教牧師をしている富田牧師でした。この人もまた拉致監禁をされ、説得を受け、統一教会を棄教した人でした。また夫人も同じような立場の人だと聞きました。富田牧師が来たのは数回だったと思います。
話をするために足を運んでいました。話の内容は、原理の内容を否定することや、教祖とその家族の反社会的な行動を訴えていたと思います。
他にも数人の元統一教会員の人がやって来て、説得を試みていました。フルートだったでしょうか、楽器を持ってきて、「今は趣味も広がり、とても楽しく生活している」というようなことを話していたと思います。つまり、統一教会信者であると、好きなこともできず、脱会したことが良かったということを説得したかったのだと思います。私にとっては、この人たちの話は的を射ていなかったので、特に納得もいかず、かえって「今の生活をより楽しんでください」と言って帰って頂きました。
富田牧師は、私が割と平静を保っていたので、情をぶつけ出すような思いにさせたかったのか、叱責するような、罵倒にも聞こえるような言葉を発したこともありました。それでも私が感情的にならなかったのは、この人たちが来る前に、統一教会を批判している書籍を10数冊読んでいたからかもしれません。この書籍は、家族が用意していたもので、自分たちも統一教会のことを調べたり、学んでこういう行動をとっているんだということを言いつつ、私自身もその書籍を読んで「正しい理解をするように」と、与えられたものでした。時間はありましたので、始めから最後まで読みながらも、私に変化がなかったので、牧師たちの登場となったわけです。
後から知ったことですが、反統一教会の本を本屋で偶然見つけた叔母から、その本を見せられた姉が、その後ろのページに載っている相談場所に連絡したのが、事の発端のようでした。私に対する心配と責任感ゆえに、実家のある群馬県の清水与志雄牧師を始め、何人もの反対牧師に相談したようでした。その時には、すでに私自身10年以上、信仰生活をしていましたので、「難しい」ということで、実行には至らず、最終的に富田牧師に出会ったようです。
年も明け、説得する人たちはもちろん来なくなっていましたが、出たり入ったりしていた親戚の人たちも少なくなり、監禁場所には、母と姉のみとなっていました。夫(東條家)の情報はというと、まだ牧師の話を聞きながら、話が続いているということだけでした。
東條側からの連絡を待ちながら、1月末頃には、私の家族は群馬県多野郡の実家に戻りました。
それまでの数カ月間、私に「依怙地にならずに話を聞くように」と話した者や、両者の仲介になってくれた人など様々でしたが、最後は、拉致監禁状態のままでは、何の進展もないということだったのでしょう。家族からすると「諦め」という結果になったようです。
実家に帰ることが決まり、家族にしてはお礼の気持ちもあったのだと思いますが、富田牧師が所属する教会に私も乗せて連れて行きました。中に入ることはありませんでしたが、私がいることにその教会の人たちは慌てていたようでした。
その時には、「しっかり覚えておかなければ」と思っていましたが、思い出したくない思いと共に、10年以上の歳月故に、その時の光景は覚えているものの、道順などは忘れてしまいました。
実家のある地域は、近くに電車もバスも通っていないような山の中で、1人では身動きできないような場所です。一応、軟禁状態ということになります。
それから1カ月もしないうちに、東條側から連絡があったようでした。何を目的として来るのかは知らされないまま、夫を含む東條の両親と叔父が訪ねてくることになりました。
両家共に2人が夫婦としていることは反対しなかったので、迎えに来てくれたものの、生活を心配した私の家族は、夫が定職に就くことを条件にして、両家の話し合いは終わりました。
1週間後、夫から仕事に就いたという連絡が来た後、すぐに東京に戻ることができました。最終的には、私たち夫婦を含む両家の話し合いで解決に至りました。
あの半年間の拉致監禁(軟禁)に何の意味があったのでしょうか。
当然、退職の時期でもなく、働くのが常であった父は、その後も元気に仕事を続けていました。姉の小1の娘はすでに大学生になりました。月日のたつのを感じながらも、「あの事件がなかったなら」という思いは、今でもあります。事件以降、「また同じようなことが起きたら・・・」という思いのなか、私は大好きな黒澤の家族のことを疑いながら、帰省していたことは事実です。
未だに、このような事件が日本のどこかで起きているということに憤りを感じるばかりです。
幸いにして、私たち夫婦はその後、子供も授かり、幸せな家庭生活を送っていますが、精神的にも健康的にも、このことが原因で大変な状態の方々がいる事実を知らないでいるわけにはいきません。
本当に信じがたい、悔しい半年間の現実ではありましたが、この経験が今、私たち以上に苦しんでいる人たちの役に立ち、またこの拉致監禁に携わっている本当の意味で人権を無視した反社会的な人たちに対して、訴えることができるのであればと思い、この文を陳述書とさせて頂きます。
以上