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被害者の声
陳述書
小出 浩久 − 末期がん患者の担当医を監禁 −
陳述書(要約)
東京地方裁判所御中
1996年10月1日
小出 浩久
- 略歴
私は1962年、東京都内で小出家の長男として生まれ、埼玉県蕨市に住み、高校は県立の浦和高校に通い、自治医科大学に入学しました。 - 統一教会との出会いと入教
1983年9月5日、当時、自治医大3年生の私は、親友のM君の紹介で統一教会の人たちと出会い、統一原理を学び、個人の人格完成をもととする理想家庭をつくり、理想社会を実現していくとする理念に共鳴し入教しました。 - 両親と反対活動の接触
それから1年ほどした1984年ころ、両親は東京の荻窪にある日本イエスキリスト教団・荻窪栄光教会に反統一教会活動家として有名な故森山諭牧師を訪ね、宮村峻氏と出会いました。宮村氏は当時、森山牧師と協力しつつ統一教会員の両親や親族らを勉強会に参加させて教育し、拉致監禁による改宗を行わせ、自らも監禁現場に赴いて指図をしていた反統一教会活動家です。
しばらくして両親は、毎週土曜日の勉強会に参加していましたが、まず父、そして母も行かなくなりました。すると、今度は宮村氏らの方から誘われ母が新宿のホテルに呼び出されました。呼び出したK元助教授は、大学で私と同じサークルの顧問でしたが、すでに宮村氏の指導で統一教会員の息子を監禁し、脱会に成功していました。K氏と宮村氏らから説得された母は、再び私の脱会活動を決意し、やがて父、姉、弟も同調して勉強会に再び参加するようになり、宮村氏や元信者との関係を深めていきました。 勉強会では、拉致監禁で脱会させた元信者を使って父兄の相談に乗ったり、宮村氏らの意向に沿って元信者が「統一教会は反社会的団体で、子供たちは悲惨な生活をしている」と証言させるものでした。<子供が入っているのは悪質な犯罪者集団だった>と深刻に思いこむようになった親たちは、何が何でも息子、娘たちを脱会させないと、という心境にまで追い込まれていくのです。
このようにして私の親たちは、2年近くに及んだ私への監禁生活の加害者に仕立てられたのです。1991年頃には、母は私の脱会の手助けを親戚、知人に求め始めていました。 - 東京での拉致監禁
1992年6月13日、当時私は東京・大塚にある一心病院の勤務医でした。1日平均35名の外来患者を担当し、受け持った入院患者も15名ほどいました。この日夜8時頃、私は母に呼び出されて埼玉県蕨市の実家に帰りました。珍しく弟が友人を連れて来ていました。
しばらくすると突然、親戚が20名近く入ってきて、私を奥の部屋に座らせて周りを取り囲みました。父は私に「浩久。統一教会という犯罪組織に加わって活動することは、親、兄弟はじめ親戚として絶対に許せない。その件に関して用意した別の場所で、皆で心おきなくじっくり話し合おう」と言いました。
私はその場の雰囲気があまりにも異常なので拒否し、その場から出ていこうとしました。その途端、親戚の男性たちが私に飛びかかり、無理やり家から担ぎ出し、外に停めてあったワゴン車に押し込みました。私は「助けてくれ! 殺される」と叫び、必死に抵抗しましたが無駄でした。
車が停まったマンション入り口には見知らぬ若い男女10数人が待ち構えていました。再び担ぎ込まれ部屋の中で、親戚の人がドアをチェーンで固定し始めたのを見て、私は「監禁された!」と気づきました。そして、中年男と2、30歳くらいの男女5、6人が部屋に入ってきました。タバコ臭い中年男が宮村氏で、若い男女の中には、東京の「青春を返せ」裁判などの原告である菊池敏江、高杉陽子さんら元信者が険しい顔つきで私を睨んでいました。私は強い憤りを感じ「基本的人権を無視した暴力的宗教迫害はやめていただきたい!」と何度も繰り返し訴えましたが、父は「統一教会の者に、基本的人権なんて言う資格はないんだ」と怒鳴り返してくる始末でした。
目の前に立った宮村氏は、開口一番「止めません!」と言い、あわてて「いや、やってません」と言い直し「お前ら統一教会の人間が、こんな時に憲法を持ち出すのはおかしいぞ」などと迫りました。 私は家族、親戚の人達に「私は医者で、多くの患者を受け持っているから、病院に行かないと大変なことになる」と、何度も必死に訴えました。医者という職業への無理解と、その社会的責任を強制的に放棄させる監禁行為という犯罪を指導している宮村氏らの非道さに、私は強い憤りを覚えました。このとき、親戚の中には「監禁なんかしていいのか」と言っていた人もいたようです。
担当していた患者さんの中で特に気になったのは、末期癌の患者さんでした。80歳代の胸水までたまってきた悪性腫瘍の患者さんは連日、呼吸苦を訴え、衰えていく体に大きな不安を持っていました。胸腔ヘドレーンを挿入し、抗癌剤の注入を行い、患者さんへの説明を家族と共に考え始めていた矢先の拉致でした。その患者さんのことを思うと、心痛で夜も眠れなくなりました。
監禁後1週間くらいして、宮村氏に同行してきた「平田広志」と名乗った弁護士は、ドアの取っ手にチェーンが巻き付けられ、窓は開けないように固定されるなど、明らかに違法な監禁状態の部屋を見ても「違法であるとは認められない」などと、家族に説明しました。「弁護士までグルか」と私は絶望感に沈みました。
監禁から約1カ月が過ぎた7月12日の夜遅く、私は突然起こされ、移動を告げられました。この日、一心病院から提出されていた「人身保護請求」が東京高裁で認められ、裁判所からの呼び出し通知がマンションの郵便受けに配達されたからでした。連絡を受けた宮村氏は、裁判所の命令を無視するには監禁場所を移すしかないと判断し、松永堡智牧師の手配で新潟のマンションへ深夜の移動となったのです。1年半後、私は両親から通知書を見せてもらいました。
移動の際、私を助け出そうとした統一教会信者と、新潟まで連れて行こうとする元信者が乱闘騒ぎとなりました。警察沙汰にまでなったのですが、荻窪警察は何故か事件として扱いませんでした。このことを監禁から逃れた後に知りました。人身保護請求は、日本ではこの程度にしか扱われないのです。 - 新潟県内を転々とした解禁場所
7月13日午前5時半ごろ、私は新潟市万代のマンションの一室に入れられました。東京のときと同様にドアや窓はチェーンで閉じられ、外界からは遮断されました。孤独な閉塞状態の中、翌日からは連日、新津福音キリスト教会牧師を名乗る松永堡智氏が4〜5人の元統一教会員らとやってきて、「統一教会=悪」だという洗脳が始まりました。監禁場所は1カ月後の8月13日深夜に柏崎市のビジネスホテル、同月24日夜に上越市内の2階建てアパートと移動し連日、元信者らが繰り返し言い立てる洗脳が続きました。 - 偽装脱会
10月中旬、私は「偽装脱会」を決意しました。もうこれ以上、話し合ってもラチが明かないと感じ、以後、約4カ月間にわたって、不本意ながら本心とは違う言動を取り続けました。牧師、元信者、両親らの言うことに素直に受け入れ、実行しました。10月末、東京から宮村氏が訪ねて来た時も、宮村氏の話に一つ一つうなずきました。そう振る舞うしかありませんでした。
松永牧師が今後のことをレポート用紙に書いて指示しました。まず、けじめとして脱会書を書くこと、その後で、知っている教会員の名前、所属教会、住所などを書くリストアップ表が渡されました。リストはいわば踏み絵で、私は松永牧師が納得するよう細心の注意を払い、さまざまに脚色して書きました。一心病院への「退職届」や統一教会への「脱会書」も書き、それらを郵送したのは年が明けてからになりました。しかし、12月に入ってもり、外出は許可されず、イライラを募らせた私は、ついに逆上してトイレの壁を殴って穴を空けてしまいました。このことで監禁からの解放はさらに遅れ、1993年の正月は上越市のアパートの中で、ラグビーなどをテレビで見て過ごしました。 - 新津市での監禁と有田氏の取材
年が明けた1月中旬のある真夜中、今度は新津市で一番大きなマンション「ロイヤルコープ」5階の一室に移りました。2月中旬、私は苦しくなり、母にだけ「統一原理を今でも信じている」と話しました。その話はすぐ父に、松永牧師、宮村氏らに伝わりました。
それから松永牧師や宮村氏は来なくなりましたが、陰で宮村氏らと連絡をとっていた両親が突然、「原理講義を聞きたい」と言い出してきました。3月中旬から50日間ほど講義し、それも終わりかかったころ、隣で寝る父が「浩久、おまえ死ねるか。おまえをもう生きてここから出すわけにはいかないんだよ。宮村さん、松永牧師らのことを知り過ぎた」と言いだしました。
翌日、再び激しい口論となり、組み伏せてきた父の形相をみて、私は「原理はマチガイだと分かった」と言うしかありませんでした。翌日から、再び松永牧師や元信者が次々に来るようになりました。
6月下旬、新津市から車で約50分、笹神村真光寺山の山荘に移りました。山荘の持ち主Tは、姪を統一教会から脱会させて以来、脱会活動に積極的に手を貸していました。そして7月初め、宮村氏の仲介で有田芳生氏と週刊文春記者の取材を受けました。断れない立場で、有田氏らが描くストーリーに話を合わせ、事実を曲げて答えるしかないこともありました。取材後、有田氏らは「1年間も閉じ込められていて、よく耐えられましたね」と言ってきました。 - 新津福音キリスト教会での「リハビリ」期間
8月31日、新津市内の中山マンションの505号室へ移されました。9月5日、私は宮村氏のセットでTBSの氏家真理ディレクターと打ち合わせ、信濃川の河川敷で録画撮りをしました。録画は、報道特集というTBSのメイン番組の一つで全国放送されてしまいました。内容は、統一教会と一心病院を批判するものでした。
初めて松永牧師の新津福音キリスト教会に連れて行かれたのは9月28日夜でした。この日以来連日、「リハビリ」の名目で、中山マンション505号室から同教会に通わされました。「リハビリ」期間は、外に一歩も出られない監禁状態を解かれた直後から、特別のリハビリホームや宿舎を準備して始まります。私の場合は監禁場所であった中山マンション505号室がそのまま宿舎となり、ずっと親と一緒に行動しなければなりませんでした。その理由は再度、一心病院から人身保護請求を起こされることを恐れたのだと思います。
教会では午前中のほとんどが自主学習で、昼近くになると午前中寝ていた人達5、6人がきて松永牧師と一緒に昼食をしました。雑談のあとで、柱の監禁者リストをみながら、その日の役割分担とスケジュールを決めました。もちろん、ここでは「監禁」ではなく「保護」という言葉が使われていました。「リハビリ」は「聖書」などの勉強よりも、実際には監禁の現場に駆り出されるために教会に通っているようなものでした。 - 一心病院と統一教会への調停
10月23日、宮村氏が連れてきた全国霊感商法対策弁護士連絡会(被害弁連)所属の山口広、紀藤正樹両弁護士に、私と両親は新潟市白山の新潟合同法律事務所で会いました。ここで山口弁護士は、交渉の目標を尋ね、父は「とにかく、もう私の息子に手を出さないと約束して欲しい」と答えました。私は同意したふりをして言われた通りに弁護士委任状に署名・捺印し、直筆で心にもない手紙を院長宛に書き、一心病院関係の組織図などを書かされました。
結局、それでも見張りつきで新津教会に行き来する生活は変わりませんでした。一心病院に、弁護士を介して対決姿勢を示すことは、とても耐えがたいことでした。そこで私はチャンスを伺い、新津教会から人目を盗んで一心病院に電話し「院長に伝えて欲しい、私は信仰を保っている」と話しました。そのためか一心病院側から両弁護士からの要求を全て拒絶され、翌年4月に一心病院を相手取り調停を起こしました。その内容は、私が一心病院で働いていた2年間の賃金が正当に支払われていないという理由でした。賃金はすべてその都度受け取っており、法律的に無理な要求でしたが、私と両親と紀藤弁護士は5月17日に、豊島簡易裁判所で行われた第1回目の調停に出席しました。 - 監禁状態からの解放
1994年4月、元信者の父親の紹介で、私は不本意ながら新津市内の共産党系と言われている勤医協下越病院に研修医という立場で就職しました。
一方、一心病院に対する調停の精神的重圧は、想像以上に苦しいものでした。連日、悪夢にうなされた私はこれ以上、耐えられないと思い、脱出の機会を伺っていました。5月29日の午後、両親が反統一教会グループ主催の2DAYSセミナー参加で出掛けたときに「今しかない!」と決意し、私名義の預金通帳と免許証類だけを持って新潟駅から東京へ。一心病院で上崎院長に会いました。院長はただ手を握り、涙を流し続け、私のテレビ出演も「信じていました。何か事情があると思っていました」と言われました。
翌日、勤め始めた新潟の病院に連絡し、「退職届」を出し、両親とも電話で連絡しました。一心病院に対して起こした調停は、取り下げの通知を出し、山口、紀藤の両弁護士には解任通知を出しました。
私は、すぐにでも病院に復帰したいと思いましたが、反統一教会の牧師や改宗請負人らに拉致・監禁される恐れもあり、しばらくは拉致・監禁された「2年間の出来事をすべてまとめてみたい」と考え、手記を書くことにしました。 - 最後に
日本国内では、キリスト教会の牧師などの中に、人権意識や法律を尊重する気持ちが非常に低い人たちがいます。そして、彼らは「間違った信仰をもっている者はどんな手段を用いても正してやるべきだ」と考えてしまうようです。さらに、人権を守るべき司法に携わっている人たちの人権意識も低く、歪んでいるとさえ言えます。これは、私の経験から裁判所、弁護士、警察において言えることだと思います。そして、マスコミの責任者達に至っては、人間を人間とすら考えていないのではないかと感じます。
日本全体における、権力者による弱者への横暴を許すこうした歪んだ考え方・体制が、宗教法人統一教会に所属する一般の人たちを、彼らの親や親族が拉致監禁するのを放置させる結果につながっています。この考え方・体制を根本的に改めるべき時です。
国会議員、司法関係者、マスコミ、キリスト教関係者、一般国民のすべてが、この事件の全体像を知り、反省し、そして必要な法整備まで行うべきだと思います。監禁された者に対する国家としての賠償責任もあると考えています。
以上