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続・拉致監禁 侵された信教の自由
2.偽装脱会を試みる 強制改宗屋が再度登場
2009.8.16 世界日報紙掲載
拉致された後藤さんが監禁されたのは、新潟市内の見知らぬマンションの6階だった。激しく抗議する後藤さんに対し、全く聞く耳を持たない家族。部屋の窓には内側から特殊な鍵が付けられ、玄関ドアは、内側からも施錠できるタイプのものだった。
外に出ることは不可能な部屋で、兄はこう言い放った。「この問題を解決するまでは、絶対に妥協しないし、この環境もこのままだ。我々はどんな犠牲を払っても決着をつける。お前もそれは覚悟しておけ」。
東京・日比谷公園大音楽堂で600人が参加した「信教の自由を求める祈りの集会」=7月7日
しばらくして、家族から脱会説得を依頼された新津福音キリスト教会の松永堡智牧師がマンションに来るようになった。「牧師らしく口調はソフトで振る舞いは紳士的。しかし、そこは監禁というおぞましい犯罪行為が行われている場所なんです。本人も知らないはずがない。松永牧師の全く悪びれない態度に嫌悪感と怒りを覚えました」と後藤さん。松永牧師は「(後藤さんの)ご家族の要請があって、お話ししただけです」という。
信仰を保持したままでは脱出は不可能と考え、偽装脱会を図ることにした。
「信仰を捨てた」と、認められるためには“踏み絵”がある。まず脱会届けを書く。次に、なぜ統一教会にだまされたのか、そのことを今どう思っているのかなど、自分の心の軌跡を手記として綴る。それを松永牧師がチェックするのだ。
兄は当時、東京に勤めていたので、1、2週間に1度ぐらい来て顔色をうかがっていく。だが、1回目の拉致監禁の際、脱出を図ったこともあり、解放に慎重になったのか、その後2年間、膠着こうちゃく状態が続いた。結局その間、一歩も外に出られず、密室化した部屋の中で息苦しいばかりの生活が続いた。97年6月には、監視を続けていた父親ががんで亡くなった。
「非常にショックが大きく、落ち込みました。でも、自由を得るためには、このまま偽装脱会をして行くところまでいくしかないかと思った」と後藤さんはふり返る。父親の死を機に、兄たちは監禁場所を東京・荻窪に移動した。新潟のマンションから後藤さんはワゴン車に乗せられたが、そこに動員されたのは元信者の男性運転手含め7人だった。
東京・保谷市の実家で、周りを大人数に囲まれながら父親の亡骸なきがらと対面した後、荻窪駅近くのマンションに連れていかれた。そこに半年ほどいて、その後約10年間過ごすことになる荻窪フラワーホームというマンションの804号室に移り、引き続き監禁された。97年12月のことだった。じっと耐えて解放の日を待っていたが、信仰を失ったふりをし続けることに我慢できなくなった。事態を打開するため偽装脱会だったことを家族に告げた。「偽装をしていたことを明かした以上、今後、偽装は通用しない。真っ正面からぶつかって闘って、どこまでいくか分からないが、それしかないと思った」と、当時の悲愴な決意を語る。
連日、夕方6時ごろになると、元信者を5、6人連れた強制改宗屋と呼ばれる宮村社長が後藤さんと対面し、教会や教理批判を繰り返した。「自分の頭で考えられるようになるまでは、ここから出られないぞ」「もし自分の子供が統一教会をやめなければ、家に座敷牢を作って死ぬまで閉じ込めておく」と。その一方で、元信者の一人が「後藤さん、あなた、とんでもないことをしてきたんだよ」とぽろぽろ涙を流して、泣き落とすように訴え掛けてくる。
「そんなこと言われても……」と、困惑しながら返答すると、今度は「何言ってるのよ」と、一転、すごい剣幕で出されていた緑茶を顔面に浴びせ掛けられたりした。
多い時には10人くらいで押しかけて詰問、それに対し何か反論すると、「バカ」「アホ」「悪魔くん」と罵声を浴びせ掛けられた。そして宮村社長からは「お前が父親を殺したんだ」と突き刺すような言葉が飛んできた。
密室の中で、査問のようなことが、連日4時間ほど繰り返された。「苦しくて……、いっそのこと死んでしまいたいと思うほどでした」と後藤さんは言う。98年1月から9月まで、後藤さんは、ある本の端に「正」という字を書いて、宮村社長が来た回数を数えていたが73回に及んだ。
取材班は宮村峻社長に電話したが連絡を取れなかった。
(「宗教の自由」取材班)