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続・拉致監禁 侵された信教の自由
3.監禁下の熾烈な攻防 解放時は、栄養失調状態
2009.8.17 世界日報紙掲載
「教団組織の中にいたのでは、自分で冷静に考えて抜け出すことはできない。だから自分の頭で考えることができるように、統一教会を検証できる場を作ってあげている」、「マインドコントロールされているあなたをカルト教団から緊急避難的に保護している」
都内の教会で、拉致監禁の体験を語る後藤徹さん=8月11日
こうした拉致監禁の実行者たちの主張に対し、後藤さんは「家族や元信者の言うことは、ハンで押したようにパターン化し、彼らこそ誰かにマインドコントロールされていると感じました」と当時を振り返りつつ、こう反論したという。
「話し合いなら大いにしましょう。しかし、拉致監禁は犯罪で、重大な人権侵害だ。ここは話し合いや検証する場ではない。あなた方が『保護』という名の下に、強制的に信仰を奪おうとしていることは火を見るより明らかだ。ここは自由と民主の社会なのだ」
しかし、連日、同じような問答の繰り返しには、さすがに耐えられなくなってきた。何とか周辺の人たちとコンタクトを取ろうと努めた。ある時は、隣室に通じる部屋の壁をどんどん叩いて、「誰か(いませんか)!」と叫んだが、応答はなかった。
また、浴室の上にある換気口から時々、どこかの階の声が漏れ聞こえてきた。そこで浴槽に足をかけ、換気口に向かって「監禁されている、警察を呼んでくれ」と叫び声を上げたが、宮村社長に引きずり降ろされた。そのもみ合いで、手に傷を負い血が流れた。
大声を出しながら玄関のドアに突進することもあった。家族は後藤さんの大きな体に布団をかぶせ、声が漏れないよう、兄は胴体を、妹は手を押さえてくる。特に母親や妹は、どこにこんな力が潜んでいたのかと思うほどの力だった。
兄は会社を休んでマンションに詰め、そばに張り付くようになったが、大声を上げる後藤さんを扱いかねた。説得の見通しがなく、絶望的な表情を浮かべることが多くなってきた。
すでに、後藤さんは40歳近くになっていた。新潟のマンションに監禁されたのが1995年9月、31歳の時。それから10年近くがたっており、「自分は世の中から取り残され、将来どうなってしまうのか」と、不安と焦燥感に襲われた。
「騒いでもだめならハンストだ」と、40歳を迎えた2004年4月、思い切って21日間の断食を決行した。その時、兄嫁からは「まだ分からないの!」と、狂ったように張り手が再三飛んできた。「目を覚ましなさい!」と叫び、ボウルの中の氷水を背中に一気に流し込まれたりした。
05年4月に再度ハンストを行い、3回目となった翌年4月のハンストは30日間にわたった。それに対し家族は断食後、食事を出さない制裁に出た。兄嫁は「死ぬ気でやってんでしょ、死ぬまでやれば」とののしった。
後藤さんは本当に死のうかと思ったが、「ここで死んだら、家族のためにもならない」と思い直し、頼み込んで食事を求めた。だが、出てきた食事はその後、約70日間、少々の重湯と1日1リットルのスポーツ飲料だけだったという。
冬の夕刻だった。家族に「ここで検証する(反省して信仰を棄すてる)気はないのか」と迫られた。後藤さんは「何で監禁されて検証しないといけないのか、検証する場じゃないでしょう」と気丈に言い返した。
すると、家族から「即刻出て行け」と外に放り出され、拉致時に履いていた革靴を投げ付けられた。
08年の2月10日、着の身着のままの一文無し、断食後の食事制裁のため栄養失調状態(解放後の診断)だった。だが、それは12年ぶりに自由意思で外を歩いた瞬間だった。
解放された後、初めて地下鉄に乗った時のことだ。乗客のほとんどが下を向いて指先をせわしく動かしているのに驚いた。12年前には、携帯でメールなどもちろんなかった。自由を取り戻した後藤さんは同時に“浦島状態”の自分をひしひしと感じたという。
(「宗教の自由」取材班)