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続・拉致監禁 侵された信教の自由
1.ホテルに呼び出し 部屋から出られず脱会説得
2009.8.15 世界日報紙掲載
後藤さんは日本大学建築科4年だった1986年、東京都練馬区のアパートから学校に通っていた。家族は大手製紙会社の管理職の父、専業主婦の母、後藤さんと4歳違いで建設会社勤務の兄、3歳下で短大生の妹の5人で、兄も後藤さんも両親を尊敬し、兄妹も仲が良かった。
東京・JR荻窪駅前で、ハンドマイク片手に拉致監禁の非道を訴える後藤徹さん=5月24日
そのころ、統一教会に入教した兄から後藤さんと妹が誘われ、1年ほどで後藤さんが、その後妹が教会活動をするようになった。もともと、兄妹間に信頼関係が築かれていたので、兄や教会の人たちの指導で2人が教理や教会の日常活動になじむのに時間はかからなかった。熱心に教会活動に励み、特に兄は、教会の広報誌に伝道優秀者としてその活躍ぶりが載ったこともあった。
ところが翌87年の5月、実家に帰っていた兄と、教会との間の連絡が途絶えた。当時から、信徒に対する拉致監禁による強制棄教が頻発していた。そのため後藤さんは、兄も監禁下で棄教するよう強制されているのではないかと、夜も眠れぬほど心配する一方、わが身にも災難が降りかかってくるのではと警戒した。5カ月後の10月、兄から突然、教会に「話したいことがあるので、来てくれ」と電話が入った。兄と待ち合わせ、行った先は東京・新宿の京王プラザホテルだった。
高層階の部屋に入ると、そこに両親が待ち構えていて、初めて兄から、信仰を捨てたことを聞かされた。その途端、後藤さんは「あ、これが強制改宗か」と直感し、部屋から出て行こうとすると、いきなり兄と父親に取り押さえられた。反発して「何をするんだ」と抵抗し暴れ回ったが、2人がかりの力にかなわなかった。気がつくと、いつの間にか入り口のドアは出られないように細工されていた。
翌日、ホテルの部屋にやってきたのは「職業的脱会屋」と呼ばれる宮村峻・会社社長だった。元信者を引き連れ、後藤さんを前に、統一教会の教理や活動を批判して説得を始めたのだが、兄は結局、この宮村社長や元信者らの説得に応じて、統一教会を脱会させられていたのだ。
「両親が脱会説得の専門家である宮村に相談した時、指導されたのが拉致監禁という方法だったようです」と後藤さんは言う。兄はもともと、正義感が強く、教会活動も熱心だったが、教会を離れた後は、教会撲滅の主張に一変した。自分が弟と妹を誘ったことに対し自責の念に駆られ、何とかしなくてはと逆の使命感から説得活動に走ったのだった。
当時、森山諭牧師が主宰する荻窪栄光教会(東京・荻窪)に宮村社長が出入りし、森山牧師と脱会説得の活動をしていた。後藤さんは、その近くのアパートの2階に移され、この教会に通わされることになった。監視人は一時も離れず、トイレに行く時でさえ1人ではなかった。
それでも、すきを見て1カ月ほどで脱出に成功し、1回目の監禁から解放されたものの、88年末には妹も宮村社長による同様の脱会説得に遭い、統一教会を脱会していった。
2回目の拉致監禁は8年後の95年9月11日だった。当時、後藤さんは教会で生活していたが、時々は東京都保谷市(現・西東京市)の実家に顔を出すまでに家族との信頼関係も回復しつつあるかに見えた。
その日も、実家に帰り両親と兄妹、兄嫁と夕食を共にしたが、異変はその直後に起こった。いきなり父が「徹、話がある」と切り出した。
恐怖のあまり体が硬直した後藤さんは、父と兄に両脇を抱えられ、引きずられながら家の前に用意されたワゴン車に押し込められ連れ去られた。途中、用を足したいと求めると、押し黙ったままビニールの簡易トイレを渡された。車中で用を足さざる得ないという屈辱的な扱いを受けた。着いたのは遠く新潟市内の、初めて見るマンションの前だった。
(「宗教の自由」取材班)