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世界学生新聞 号外 1993.5.15

飯干晃一「われら父親は闘う」を斬る

娘の景子さんが統一原理を勉強していたことに驚き、統一教会絶滅を宣言。キリスト教関係者や。改宗業者、及び元信者らの協力を得て景子さんを教会から引き離した後もテレビなどで反統一教会の立場で発言を繰り返してきた飯干晃一氏。 飯干氏は文芸春秋社から出した「われら父親は闘う」の中には、統一原理を”偽キリスト教””単なるデタラメ”(P61)としている部分がある。これは統一原理の誤解、曲解によるものと思われるので主要な部分を指摘しておく。


真理はイエス自身 聖書ではない

『聖書は真理それ自体ではない』という原理講論はキリスト教ではない(P61)

イエスはヨハネの福音書のなかで、次のように言われました。「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネー14:6)
つまり真理はイエス目身であるのです。一方、イエスは「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証しをするものだ」(ヨハネ5:39)とも述べました。
つまり、真理はイエス御自身であって聖書ではないということを示唆しているのです。また、これを聖書解釈の歴史から見れば、「聖書は真理そのもの」と見る立場はキリスト教界においても少数派になっできているのが現状です。
この立場は正当主義的逐語霊感説と言いますが、新約聖書研究の進展とともに福音書間に様々な食い違いが発見されてきたためです。スペース的に詳しくは述べられませんが、今殴の解釈学では「聖書と神の言葉は闘接的に同一である」(「教義学とは何か」34、傍点筆者)となっているのです。
つまり、聖書の言葉は、聖書を読みながら「待望と想起」をすることによって自分にとって神の言葉となる、あるいは真理の言葉となると置き換えてもいいと思います。
したがって「原理講論」が「聖書は真理そのものではない」といっても、それがキリスト教ではないことを示す根拠には、全くならないのです。

「天使とエバの性的堕落」キリスト教的な解釈

「これで統一教会の言っていること、蛇との性交が大ウソであると理解された」。

統一原理の堕落論、すなわち蛇に象徴される天使とエバとの「結果としての性的堕落」は、極めてキリスト教的であることは比較的容易に説明できます。
ドイツの有名な旧約学者であるフォン・ラートは、善悪の知識の木(創世記2:17)について、それが限定的ながらも性体験を意味していることを述べています。それは、口語訳では「善悪を知る木」と訳されているヘブル語の「知る」(ヤーダー)が「体験する」とか「…になじむ」という意味を含むからです。
また、神がアダムの肋骨からエバを造った(創世記2:22)ということにも暗示的ながら限定的に「男女の性関係にかかわる特別の観念が結びついている、ということも可能である」としています。
さらに、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記3:24)も、男女における「根本的な力を持つ性衝動」を示していると指摘します。
また「恥は常に何物かを隠そうとする」との指摘も、恥ずかしいところを隠そうとするのが人間の本性であるとの原理の解釈と似ています。
最後に、創世記3:1〜7節のヘビとエバとの会話、また善悪の木を食べることについてフォン・ラートは、「人間たちがまだ性の秘密を知らずにおり、堕落の後に初めてその秘密が明かされることを前提にしている」と言明しています。

「旧約聖書でイエスの生涯予言」粗雑で早急な論理

「イエスの窓外に関して旧約聖書の中で予言されている」(P76)

約聖書の予言の成就であるとしました。それは「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタイ1:23)が、イザヤ書の「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(7:14B)の予言成就であるということです。(P76)
マタイではイエスが処女から生まれたとしています。「おとめ」は「男を知らない女」という意味に使われ、そこからイエスの神性が導き出されるのです。
ところがこのマタイの1:23がイザヤ書の予言の成就がどうかはさだかではなく、むしろ「旧約新約聖書大辞典」(教文館、P268)によるとおそらく違っているだろうというのが今日の見解です。
それというのも、紀元前三世紀頃、ヘブル語が分からなくなったヘブル人のために七十人訳聖書というものがヘブル語からギリシャ語に訳されて出来上がるのですが、その際にヘブル語で「アルマー」(若い女、決して処女という意味ではなかった)が、ギリシャ語で「パーセノス」(処女)に誤訳され、そこからイエスの処女懐胎説が根拠付けられたという経緯があります。
したがって、マタイ伝がイエスの処女懐胎を堅持する限り、マタイ伝で使われている「処女」はイザヤ書の「おとめ」とは意味が全く違っていて、正確に引用されていないと言わざるをえません。つまり、イザヤ書の予言がマタイ伝で成就したとは言えないのです。 同じようなことは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、各伝についても言えます。
「聖書解釈の歴史」(日本基督教団出版局)の、橋本滋男・同志社大学神学部教授によると、福音書の中には旧約聖書からの引用が百十カ所ありますが、それらのすべては厳密に言うと正確な引用ではなく、かつイエスの生涯が旧約聖書の予言の成就であるとの信仰によってのみ納得されるものであると指摘しています。
こうして見ると、飯干氏の「イエスの生涯に関して旧約聖書の中で予言されている」との指摘はかなり粗雑な論理と言えます。

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