統一教会の信者に対する、拉致監禁・強制改宗について、その根絶を求めます。被害者の声。陳述書 監禁を苦に自殺未遂 美津子・アントール
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被害者の声


陳述書

美津子・アントール - 監禁を苦に自殺未遂 -


陳述書(要約)

1.経歴

 私は1971年5月21日、埼玉県本庄市にて父、母の長女として生まれました。兄弟は1才上の兄と、双子の妹がいます。私は地元高校を経て1990年4月、関東短期大学初等教育学科に入学しました。1992年3月、同大学を卒業後、同年4月に伊勢崎信用金庫に入庫しました。

2.統一教会との出会い

 1992年4月、当時看護婦をしていた妹を通じて、統一教会の教義である統一原理を学び始めました。同年7月26日、統一教会に入会しました。
 1995年3月末、伊勢崎信用金庫を退職し、その後は教会関連施設に住み込み、アルバイトに通いました。同年5月25日、実家に帰り、統一教会で勉強していることを父に話すと、父は突然怒り始め、脱会を強く求めました。
 その翌日、母はおば(母の姉)に電話し、私が統一教会に入会したことを伝えました。このおばは共産主義者で、この直後に反統一教会活動に熱心に取り組む川崎経子牧師の著書を買い、私を脱会させる準備を始めました。
 同年8月25日、韓国・ソウルで開催された36万双の国際合同結婚式(祝福)への参加を希望し、統一教会創始者の文鮮明先生に紹介された韓国人の方と祝福式に臨みました。訪韓する直前、祝福式に参加する旨の手紙を親に出しました。なお、相手の方は1996年5月、婚約破棄したい意思を手紙で私に伝えてきました。

3.親族等による監禁計画

 1995年9月、妹から連絡があり、両親と母方のおじ・おばが私を拉致監禁する準備をしていると知らせてくれました。両親らは、東京・立川市にある立川教会の愛沢牧師や統一教会に反対する父兄の会の臼井という活動家に繋がっていました。臼井氏は「統一教会員は『金目の物は何でも盗んでこい』と言われる」など虚偽の話をし、統一教会は恐ろしいところだと親族に信じ込ませ、拉致監禁による強制脱会を指導していたそうです。

4.第1回目の監禁

 1996年5月20日午前、私は埼玉県鴻巣市にある運転免許センターに免許書換の手続きに行きました。免許証の交付を受けるためビデオ室で待機していたところ、職員に「一緒に来て下さい」と言われ、救護室に連れて行かれました。するとそこには両親の他、おじ・おば6人が待機していました。私は、そこからワゴン車で立川市錦町にあるマンションの515号室に拉致されました。
 515号室の玄関ドアは、通常の鍵以外にチェーンと南京錠など特別の鍵が3つほど取り付けられていました。窓は分厚いガラスで、ベランダに出るためのドアは鍵が開かないようにドアの下の方が細工されていました。
 監禁下で父から聞きたくない話を一方的に聞かされる生活が始まり、自分でもよく分かりませんが、私は5日目の朝から一切話をしなくなり、無表情になりました。こうした状態がしばらく続きました。
 6月2日、私は精神的に非常な重圧感を感じ、トイレの中に立てこもったり、玄関ドアの前に座り続けたりしました。こうした態度に母は泣き出し、父は怒って私の方に向かってきました。両親は、抵抗する姿勢を見せた私を床の上にうつ伏せに組み伏せ、「これが親の愛情だ」と口々に叫びながら、私の両足をコードで縛りました。私は、犯罪人でもないのに、何故こんなことをされなければならないのかと思い、声を上げて泣きました。40分ぐらい泣き続けるうちに、私は自分が自分でなくなり、叫び出したり笑い出したり泣き出したりという状態を20分ほど繰り返し、そのまま寝てしまいした。
 6月12日、自力脱出は不可能と判断し、私は「統一教会を脱会します」と言って偽装脱会を試みました。翌13日夜、私は「原理の間違いに気づいたので脱会します」と脱会届を書き、父に渡しました。これ以降、私はまた3、4日しゃべらなくなりました。
 6月19日午後3時頃、愛沢牧師が初めてマンションにやって来て、1時間ほど統一原理の批判をして帰って行きました。これ以降、愛沢牧師はマンションに頻繁に来て、原理講論の言葉尻だけを捉えた批判をしていきました。5回目に来て「堕落論」を批判した時、私は間違いが分かった振りをしないと解放されないと思い、涙を流しながら「ごめんなさい。間違いが分かりました」と言いました。すると、居合わせた全員が、私が間違いに気づいたものと感じ取ったようでした。その翌日、愛沢牧師が再びやって来て、「統一教会に献金した額や祝福のことを全部話しなさい。献金も取り戻せるように弁護士を通して手続きをしていこう」と言いました。
 7月7日午後、私は両親と一緒にマンションを出て、車で山梨県にある川崎経子牧師の谷村教会(やむらきょうかい)に連れて行かれました。そこは監禁中に脱会を表明した信者のための「リハビリ」施設でした。教会の2階は脱会を表明した信者が共同生活する場所でした。そこには、私と同じ教会にいた滝田さんや私と同じ立川のマンションで監禁されていた内田さんなど元女性信者が数人滞在し、容易に外に出られる状況ではありませんでした。
 7月9日午後11時頃、周りの人達が寝静まった後、私は布団の中で着替え、必要な荷物を持って音を立てずに玄関まで行き、外に出ました。脱出はしましたが、いつまた監禁されるかも知れないという恐怖心は、その後も続きました。

5.脱出後の歩み

 1996年11月、私はアメリカに海外宣教に行くことになりました。親には電話で宣教に行く旨伝えました。同年12月2日、私はニューヨークに到着し、12月5日に任地のワシントンDCに移り、活動を始めました。 1997年3月、ビザが切れるため一時帰国し、東京でアルバイトをしました。同年6月10日、東京・昭島市大神町にあるアパートの108号室に住み始めました。これに先立ち、監禁後初めて実家を訪れて両親に会い、一泊しましたが、統一教会のことは一切話しませんでした。
 同年9月18日頃、私は再渡米し、11月29日にワシントンDCのRFKスタジアムで開催された360万双の国際合同結婚式(祝福)に、アメリカ人クリストファー・アントールさんと参加しました。12月4日、私は帰国して昭島のアパートに戻り、アルバイトを再開しました。

6.第2回目の監禁

1998年5月16日午前8時30分頃、私が昭島のアパートで寝ていた時、同居していた陣内さんという女性信者が出勤するのと入れ違いに、私の両親が凄まじい形相で部屋の中に入って来たので、私は非常な恐怖心を覚えました。約5分後には、おじ3名とおばも入って来ました。私は外に停めてあったワゴン車に乗せられ、群馬県太田市下田島にあるアパートの202号室に拉致されました。
 202号室の玄関ドアは、チェーンと南京錠で二重三重に施錠されていました。また、すべての窓に留め金などの特殊な装置が施され、開かないようになっていました。間取りは3LDKで、そのうちの一部屋は統一教会関係の資料を保管するための資料室で、常に施錠されていました。
 監禁が始まって以降、私はトイレや風呂に入る度に泣きました。両親の薄情な態度に失望したのと、監禁場所からは出られないという絶望感に襲われたからです。監禁の初日か2日目、私は意識が朦朧とした中で自殺したいという衝動にかられ、筆入れのカッターナイフを隠し持ってトイレに入り、気がついたら手のひらの小指の下の部分を切りつけていました。しかし統一教会では自殺を神が最も悲しむ行為として禁止しているため、結局は思いとどまることができました。
 5月21日午後、清水与志雄牧師が初めて監禁場所にやって来ました。清水牧師は「御両親と相談し、こういう形で保護(拉致監禁)することになった」と言いました。私が「こういう場所で親子の話し合いをするのはおかしい」と訴えると、牧師は「1回逃げたじゃないか。逃げないためにもこれが一番いい方法だ」と言いました。
 清水牧師は最初の1週間ぐらいはほぼ毎日来ていましたが、そのうち2日に1度、3日に1度と、来る回数が少なくなっていきました。清水牧師は「お前が統一教会にいる限り社会悪をもたらす」「鉄格子にでも一生入っていろ」などと度々私を怒鳴りつけ、両親はそれをただ黙って見ているだけでした。
 7月8日夜9時頃、清水牧師がやって来て、両親達に「美津子さんは昨年、アメリカで行われた祝福に参加しています。相手は統一教会でも相当活躍しているアメリカ人みたいです」と言いました。私は両親に「すいません、嘘ついていました」と謝りました。清水牧師は「お前は本当に大嘘つきだ」と怒鳴り、「脱会届を出し、祝福破棄の文書を書け」と言いましたが、私は拒否しました。清水牧師は「祝福を絶対壊してやる」などと言いながら、座布団で3回、私の顔を殴りました。また、私が親と会話している最中、牧師は私の両肩を3回両手で強く叩き、私はその度によろけました。
 さらに、清水牧師から「お前自殺したいと思ったことがあるんだろ。だったら死ねよ」と言われ、私は完全に精神的ダメージを受けてしまい、この後しばらく、清水牧師が何を言っても「死ね、死ね」と言っているようにしか聞こえなくなりました。最後に、清水牧師は「結婚相手が統一教会を抜け、移住して日本で生活するという2つの条件を飲めば、お前の親は結婚することを許してくれる。そのためにもこれから夫の情報を集めたいので、知っている限り教えて欲しい」と言いました。私がこれに同意すると、牧師は喜んで帰って行きました。なお、清水牧師はスティーブン・ハッサンというアメリカ人を通じても、私の夫の情報収集を行いました。
 この日、私は第2回目の自殺したい衝動にかられ、トイレにカッターナイフを持って駆け込み、気がついてみたら手のひらの小指の下の部分を切りつけていました。血がにじみ出て来ましたが、やはり神は自殺を最も悲しまれると思い、自殺するには至りませんでした。
 7月15日、陣内さんから電話が入り、夫クリスさんが私を捜すため日本に来ていることを教えてくれました。
 7月19日、母と佐藤のおばが隣の部屋で話をしている声が聞こえてきました。私は、母が話の中で私のことを犯罪人扱いしていたことなどに強い憤りを感じ、また監禁がいつまでも続く絶望感から、第3回目の自殺の衝動にかられました。私はトイレに駆け込み、肘の内側を切った方が早く死ねると聞いたことがあったので、肘の内側を切りつけました。しかしカッターが悪くて血がにじんだ程度だったので、次に手首を切りました。血がにじんできて、今度切りつければ血がどっと流れ出てくるところまで切りましたが、痛みがひどくなって我に返り、自分だけの命ではないと自殺を思いとどまりました。私は切った手首を見つめながら、あきらめずに自由を得られる時まで待とうと思いました。
 7月22日夜、清水牧師が監禁場所に来たところ、おばが「美津子を外に出させてやってもいいですか?」と聞くと、清水牧師は「御両親の責任で出して下さい」と許可しました。7月24日午前、両親と共に監禁場所に来てから初めて車で外出しました。
 7月25日の昼頃、父が部屋の南側のバルコニーに面した窓に取り付けられていたプラスチックの覆いと、窓に取り付けてあった金具と材木を外し、窓の開閉ができるようになりました。
 7月26日、監禁場所に両親だけが残っていた午前11時頃、父は部屋Aで寝ていて、母は資料室でパソコンをしていました。この時、私は部屋Bにいて、バルコニーに面した窓が開いていました。脱出するなら今だと考え、窓からバルコニーに出て、手すりを超えて雨どいのパイプにつかまったところ、それが折れて私は地面に足から落ちて尻餅をつきました。このとき右足の外腿に激しい痛みを感じ、左手の親指の付け根にも痛みを感じました。それでも、パイプが折れた音が大きかったので、私が脱出したことを気づかれたと思い、全力で逃げました。通りがかりの車の助けを得て、私は昭島の教会関連施設に帰ってくることができました。この日の午後、夫クリスさんと再会することができました。

7.第2回目の監禁後

 7月27日、私は豊島区の一心病院に行き、左第一腰椎横突起骨折などで全治3週間と診断されました。8月20日、精神科の高橋医院で受診し、強制的監禁による不安感、不眠、自律神経失調状態が認められ、「外傷後ストレス傷害」との疾患が認められると診断されました。

8.最後に

 両親は「反対牧師」等に唆され、統一教会は犯罪者集団であると誤解し、しかも、統一教会信者に対する拉致監禁は「保護」「救出」であって違法ではないと信じ切っています。今のままでは両親が再び私を拉致監禁してくることは間違いありません。
 清水牧師は「保護」「救出」という美名の下、私に対する拉致監禁を両親に指導し、しかも監禁下の私に対して暴行脅迫を行い、暴言を吐き連ねるなど、悪質な違法行為を繰り返しました。監禁中に3度も自殺したいという衝動に駆られ、親子間の信頼関係をズタズタに引き裂かれるなど、私は清水牧師から途方もない精神的損害を被りました。清水牧師に二度とこのような悪質な犯罪行為をさせないためにも、精神的・物質的損害についてはしっかりと責任をとって頂きたいと思います。

以上

1999年1月15日

アメリカ合衆国メイン州ヨークハーバー

アントール・美津子

  • 我らの不快な隣人

    ルポライター米本和広氏が、拉致監禁によって引き起こされたPTSD被害の実態をレポート。

    ►第6章 掲載
  • 人さらいからの脱出

    世にも恐ろしい「人さらい事件」に関わった弁護士、牧師、マスコミ人らの非道な実態を実名で白日のもとにさらす。

    ►書籍紹介
  • 日本収容所列島

    いまなお続く統一教会信者への拉致監禁。小冊子やパンフレット、HP等で告知してきた内容をまとめました。

    ►書籍紹介

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