4300人の信者が「拉致監禁」され、強制棄教の恐怖と闘った 余りに過酷な現実

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監禁前に警察に根回し ー R・Iさん(当時25歳)

陳述書より(要約) ー R・Iさん(25歳ー拉致監禁された当時の年齢)

 

私は、1995年10月23日から同年10月27日までと、1997年1月10日から同年6月9日までの2度にわたり、両親や親戚、日本基督教団の牧師らによって、拉致監禁された上、統一教会からの脱会を強要されました。

私は、1970年5月11日生まれで、父、母、妹2人の5人家族です。1990年12月、原理研究会に入会しました。
統一教会には1995年に入会し、同年8月、現在の夫である今利智也と韓国で行われた合同祝福結婚式に参加しました。

今回は、2度目の監禁のことを中心に述べたいと思います。

 

最初の拉致監禁

 

 1995年10月23日、両親と脱会者のA一家によって、私は当時住んでいた横浜の実家から拉致され、群馬のマンションで監禁されました。
その時は、運良く一瞬の隙をついて2階から裸足で飛び下り、脱出することができました。

 私はその後、再度の監禁を恐れて実家に帰ることも職場に戻ることもできず、夫の実家に3ヵ月程かくまってもらいました。
また同年11月には、今利智也と正式に入籍しました。
私は、何とか監禁などしないで話し合えないかと、両親に手紙を書いたり電話をしたりしましたが、全く話になりませんでした。

 

2度目の拉致監禁

 

 1997年1月10日午後8時頃、私は夫とともに、妹の誕生日を祝うため、妹と川崎市のデニーズで食事をしました。
午後10時半過ぎに店を出たところ、待ち構えていた親族らに羽交い締めにされました。
混乱の中、夫が「R・Iさーん!R・Iさーん!」と力一杯呼ぶ声が聞こえ、私も無我夢中で「■■さーん!■■さーん!」と力の限り叫び続けました。

 私はマンションに連れ込まれるとすぐに、「これは人権侵害だ」と主張しましたが、父は「これは親子の話し合いだ」と譲りませんでした。
 1月12日昼、A夫婦は帰り、それから5ヵ月間、父、母、妹から不法に監禁され続けるという地獄の日々が始まりました。

 

横浜のマンション

 

 マンション内は、玄関ドアはチェーンと2個の南京錠により厳重に施錠されていました。
ドアを開ける鍵は、父が24時間身につけていたウエストポーチに管理されていました。
窓は、線模様がある厚手で半透明のビニールが一面に貼られ、開かないように細工してありました。
トイレはカギがかからないようになっていました。部屋を仕切るふすまは取り外され、一人になれるのはバスルームかトイレだけでした。

 私の携帯電話は取り上げられ、夫にも会社にも連絡する事は許されませんでした。
もちろん、外に出ることもできず、会社を辞めたという父と妹、母の3人に24時間監視されていました。

 1月の第3週の半ばくらいまで、「この環境が話し合いに相応しいものではない」ということを懸命に説明しましたが、いくら言っても「話し合うには監禁しかない」と譲らず、「お前のことを話せ」とつきまとわれました。

 第3週の終わりから第4週の始めにかけ、自分自身の事と、統一運動について話をせざるを得ませんでした。
このことが脱会させるためのプロセスの一つであることをはっきりと知ったのは、戸塚教会の勉強会に参加してからのことでした。

 私はあまりに理不尽な扱いにショックを受け、第4週の末から第5週の半ば頃まで寝込んでしまいました。

 両親も妹も、誰かに指示された様に、変に話を変えたり、持ち出したりしていました。
後で知ったことですが、監禁中は牧師への定時連絡の時間が決められており、両親も妹も黒鳥牧師と常時連絡を取り合っていました。

 両親はもう監禁を止めようかと思った時もあったそうですが、黒鳥牧師に「脱会させるまでやる。監禁したらその子のためにも絶対逃がしてはいけない」と叱咤されたため、奮起し直して監禁を続けたのだと話していました。

 

藤沢市のマンションへ移送

 

 2月15日の夜、父が引っ越すことになったと言いました。後で妹から、下の階の男性に不信に思われ、そうすることになったと聞きました。

 2月16日午前0時半過ぎ、父に連れ出され、36日ぶりに外に出ることができました。
しかしドアの外には、父、母、妹、叔母、叔母の弟が待ち受けていて、その監視の中、2ヵ所目の監禁場所である藤沢市石川646-11グロリア湘南B101号に移動させられました。

 ここでも玄関にはチェーンと2個の南京錠が掛けられ、鍵はいつも父のウエストポーチに管理されていました。
トイレの鍵は、やはり外されていて掛かりませんでした。ここもふすまがないので、着替える時はトイレかバスルームへ行きました。

 
 2月16日から2ヵ月近くは、統一原理の講義をさせられる日々が続きました。

 4月6日、原理講義が最後まで終わると、7日には日本基督教団・統一原理問題連絡会の『これが素顔!』というパンフレットを持ち出して、この一つ一つの内容に対してコメントを求められるようになりました。

 

ふたたび移送

 

 4月10日、また引っ越さなければならないという話になりました。
後日、この時の引っ越しの理由を聞いてみると、警察が動いていて、横浜周辺は危ないからということでした。

 私を拉致する際に、父は事前に宮前警察に挨拶に行ったということも、後から聞きました。
父は「警察からは『穏便にお願いしますね』と言われたのに・・・」と警察の動きにとてもショックを受けていました。

 引っ越しは、50歳代から60歳代の男女が手伝いました。
その女性とは後に戸塚教会で再会し、『なかだ』という名前だと分かりました。

 私がダイニングに行った時、女性が私に気がつかないで、小声で父に「清水先生の連絡先、分かりますか?」と聞いていました。
黒鳥牧師と両親、妹がいた時にその話をすると、一斉に「あー!やっぱり聞こえていたのかー」と、残念そうな溜め息をついていました。

 牧師が登場するまでは、両親はあくまでも『牧師の関与』を隠し、『脱会させようとしているのではない』という立場に立とうとしていました。

 4月10日午後9時半頃、若林の車に乗せられ、群馬県の太田八幡教会近くまで移動しました。
4月11日の午前0時半頃、1台の白の滋賀ナンバーの軽自動車が合流し、その軽自動車の先導の元、埼玉県深谷市大字上野台2352番地ダイヤパレスビックウイング深谷630号に到着しました。
その軽自動車を運転していたのは、清水牧師でした。

 後で知ったことには、このマンションは『なかがわさん』が娘さんを脱会させるために借りたもので、この日の夕方まで使っていました。
基本的に黒鳥牧師は、各家族が監禁する部屋を用意するように指導し、1年以上待機しているマンションもあるそうですが、清水牧師は又貸しして融通してくれるので、突然の時などには便利なのだと母が話していました。

 私はトイレより玄関の方へ行くことが許されず、窓には備え付けの格子が付いていました。

 4月11日から1週間くらいは、両親は日本基督教団の統一教会批判のパンフレットを持ち出し、説明を求めてきました。
説明を一通り終えると「それを牧師と話して、検証してほしい」と言ってきました。

 執拗に牧師に会うように迫られ、ここから出るためには牧師を呼ぶことに同意せざるを得ないと考えました。

 

清水牧師の登場

 

 4月19日午後7時頃、日本基督教団・太田八幡教会の清水与志雄牧師がやって来ました。
この日から、牧師による本格的な脱会の説得が開始されました。

 私が監禁されている間、清水牧師は私のノートに日付が残っているだけで、4月19、21、22、28日、5月6、13、18、25日、6月2日に深谷のマンションに来ました。
夕方に来たのは1回だけで、後は早くて午後の10、11時、遅い時は11時半から、大抵3時間くらいは話していきました。午前4時くらまでいたこともありました。

 清水牧師は、統一教会批判の記事や資料を大量に持ってきました。
記事の内容についてどう思うか説明を求められ、間違いを責め立てられました。また黙っていると「真剣さが足りない!」「逃げている!」と追及されました。
逆に「そうですねー、おかしいですよねー」と同意すると認められるのでした。

 清水牧師は「知能が低いから分からないんだ」等、私の人格を否定する事を平気で言い、一方的な価値観に基づいた自分の見解を押しつけては、満足して帰って行きました。

 

偽装脱会

 

 監禁から解放されるためには、とにかく信仰を捨てるしかありませんでした。

 5月23日、私はついに死ぬ思いでいったん自分の人格を捨て、屈辱を飲み込み、家族に「私が間違っていた。どうも申し訳ありませんでした」と涙ながらに告白しました。
するとすぐにその日から、今度は妹と夫の説得をどうするかという話に移りました。

 5月25日午後11時頃、清水牧師がやって来ました。
牧師も交えて、妹や夫の救出(脱会説得)について翌26日午前4時くらいまで話し合いました。
この時、夫の傷害事件の話になり、清水牧師は「たいした怪我でもないだろうに、大げさに騒ぎやがって」と話していました。

 この日からは連日、清水牧師に同行し、他に監禁されている信徒の説得現場へ連れて行かれることになりました。

 5月26日午後1時か2時ごろ、母が運転し、清水牧師、父、妹、私の5人で、太田市東別所528付近のサンライズ太田二階にいるK君の所へ説得に行きました。

 清水牧師は全ての監禁に使われている部屋の鍵を持っていて、この時も、鍵束からオートロックを解除する鍵を探して、開けていました。

 5月27日午後1時頃、母の運転する車で牧師、なかがわさん、私、妹の5人で、太田市金山町26付近の東山マンション602号に監禁されている、Wさんの説得に行きました。
清水牧師が「日本は民事不介入がある。犯罪を犯す子供は、解決しなければここから出してはいけない。出すくらいなら殺してください」と、Wさんとその両親に迫っていました。

 6月の第1週、ドアのチェーンは外され、ふすまも元の様にはめられました。
しかし、逃げることはせずより安全な機会を待ちました。

 

戸塚教会の黒鳥牧師に会う

 

 6月4日、戸塚教会の勉強会へ、父、母、妹、私の4人で行きました。
母は黒鳥牧師のことを「とてもいい先生で、R・Iちゃんのことを分かってくれるよ。本当は2回とも、始めから黒鳥先生だったのにね」と話していました。
それが警察の動きにより、黒鳥牧師の身辺が危険になり、清水牧師の所へと説得に回されることになったのでした。

 両親が教会に入っていくと、そこにいた何人かの親たちが「▲▲さん(娘が脱会して)良かったわね」と話しかけ、両親がそれに答えていました。

 この戸塚教会の統一教会に関する勉強会では、拉致監禁の模擬訓練も行っているとのことです。
父親の場合は、娘の胴に腕を回すことにためらいがあるので、それ乗り越えて拉致するためにも訓練しているのだそうです。

 6月5日、午後7時半から太田八幡教会の勉強会に参加しました。
その後、清水牧師と母と私と3人で、午前0時半から2時くらいまで、前日に黒鳥牧師と相談した内容を含めて、これからの方向性等を話しました。

 黒鳥牧師との話で、私が夫を説得し、夫と一緒に妹を監禁することになったと伝えると、清水牧師は「大丈夫かなー」「2人くらい説得してから帰ったほうが、自信が付いていいと思うけど」と、心配そうに話していました。

 6月6日午前9時半頃、黒鳥牧師に電話をして、具体的にこれからどうしていくかを9日に会って話すことになりました。
家族とは、黒鳥牧師の許可が出たら、その足で帰ろうと話しました。

 6月9日は、私は夫の元へ、両親と妹は横浜の自宅へそれぞれ帰る支度をしてマンションを出ました。
黒鳥牧師と私は、昼過ぎまで戸塚教会の牧師館で話しました。
黒鳥牧師との話がまとまり、監禁は解除されることになりました。

 

5ヵ月ぶりの自由

 

 この日、午後5時頃、私はJR戸塚駅近くのバスロータリー前で車から降ろされ、母と妹と別れて、5ヵ月間の監禁からようやく解放されたのです。
そして午後7時過ぎ頃、藤沢駅に迎えに来てくれた夫と義母に再会することができたのです。

 

終わりに

 

 私はこの5ヵ月間、外へ出ることが許されないどころか外部との連絡さえできず、夫や義母、会社の方々に多大な心配と迷惑をかけてしまいました。
私自身、解放されても、悪夢にうなされ、眠れない日々が続きました。

 その後、夫や義母、弁護士と相談をして、私に対する逮捕監禁罪についての処罰をお願いしようと決心しました。
私にとって実の両親や妹も対象に含んだこの事件の処罰をお願いするのは、本当に辛いものがありますが、この問題は既に家庭内紛争という次元を越えています。

一日も早く、このような被害が無くなることを切願するものです。

以上

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