4300人の信者が「拉致監禁」され、強制棄教の恐怖と闘った 余りに過酷な現実

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拉致監禁の綿密な計画書に愕然としました

拉致監禁に深く傷つき、婚約者も私も後遺症に悩まされ続けたのです。

本レポートは『脱会説得による悲劇 第二章 痛哭と絶望を超えて』収録されたものです。

本書は現在の報道の背景を理解するとともに、拉致監禁の再発を防ぐために作成された一冊です。本の紹介ページへ

今回の内容は動画でもご視聴いただけます。

 

第二章 痛哭と絶望を超えて

 

残された心の傷①

 

 私は1992年8月25日、韓国・ソウルで挙行された「3万双国際合同祝福結婚式」で結婚し、その後、家庭を持ちました。現在(2009年)、3人の子供がいます。

 私は2006年8月、鬱病になりました。子育ても家事もできなくなり、真っ暗なトンネルに入ったような心境を味わいました。「この思いは……どこかで味わったことがある……」。そして、13年前に体験した拉致監禁を思い出したのです。

 私は、忘れようとしてきた過去にようやく向き合い始めました。そして、そのことを通して、拉致監禁を体験した私だけでなく、当時婚約者であった主人も大きな心の傷を受けていたことが見えてきたのです。私の体験を報告します。

監禁開始

 1993年12月23日、私は家族から散髪を頼まれ、実家に帰った時に拉致されました。拉致された後、私は京都のマンションに69日間監禁され、さらに、日本イエス・キリスト教団・京都聖徒教会内に軟禁されてから38日目に、何とか逃げることができました。

 両親は、最初親族の紹介で、八尾ルーテル教会に相談に行き、そこで聖書の勉強を勧められ、洗礼を受けたそうです。両親は、その八尾ルーテル教会で京都聖徒教会の船田武雄牧師を紹介されたのです。船田牧師の「相談会」に参加するようになった両親は、そこで船田牧師から指導を受け、拉致監禁を計画するようになったといいます。

 また、母の従兄弟(いとこ)で、日本基督教団に所属し、当時、台湾宣教師であった二ノ宮一朗氏も、京都のマンションの中に2週間ほど一緒にいました。

 拉致された日のことです。家族の散髪を終えて帰ろうとすると、両親が「駅まで送るから」と言って、一緒に家を出ました。ところが、数分歩いた路上で、私は突然、サングラスをかけた数人の男女に取り囲まれたのです。

 突然のことで何が起こったのか分からず、私は恐怖心で大声を上げ、助けを求めました。しかし、どうすることもできず、そのまま強引に、車に押し込められてしまったのです。

 私が押し込まれた車の前には、別の車が1台ありました。さらに後ろにも1台停(と)まっていて、彼らはトランシーバーで連絡を取り合いながら走り出しました。見ると、私が乗せられた車の運転席には、親戚の叔父、助手席には父がいたのです。妹と母が、私の腕をしっかり握っていました。

 そのまま、京都のマンションまで連れていかれました。車から降りても、私が逃げないように、家族は私の腕をしっかりつかみ、エレベーターの中では、何階で降りるのかさえ見せてくれませんでした。私をマンションの一室に入れると、親は玄関ドアに鍵とチェーンを掛け、そのチェーンに、さらに南京(なんきん)錠を掛けて、私の靴もどこかに隠してしまいました。

 私は、家族がこのようなことをしたことにショックを受け、あまりの悔しさで、正常な気持ちでいることができませんでした。

 こうして、私の監禁生活が始まったのでした。

 

次の章は、「監禁されたマンションの中で」をお届けします。

残された心の傷② 監禁されたマンションの中で


▶『監禁されたマンションの中で』を詳しく見る

 

 パニックになっている私に対し、両親は「T、すまん。これしか方法がなかったんや」と何度も言いました。私は、「こんなことして良心が痛むでしょう!」と言いました。

 部屋は、厳重に鍵が掛けられており、トイレに行くときも父が見張っていました。

 無理矢理連れてこられた時のショックは、体が覚えており、異常なほどの恐怖を感じました。寝るときにも私が逃げないよう、家族が常時見張っていましたので、強い精神的圧迫を受け、苦痛を感じる日々が始まりました。

 両親は、「話し合いをしたい」「統一教会(家庭連合)のことを知りたい」「統一教会に詳しい牧師の話を聞いてほしい」などと言って、私に詰め寄ってきました。しかし、いくら話をしても、平行線でした。

 結局、「話し合い」というのは建前であり、何が何でも家庭連合の信仰を棄てさせようとする一方的な手段であることは明白でした。私は「とにかく逃げるしかない」と思い、3日目の明け方4時頃、ベランダの窓の鍵を開けて外に出ました。見ると、そこは8階でした。下に降りることもできないので、やむを得ず、私は2軒先の家まで塀を飛び越えて渡り、朝、その家の人が起きてきたら助けてもらおうと思いました。

 ところが、その場面を両親に見つかってしまって、どうすることもできず、部屋に戻りました。

 それから数日後、元信者の女性や、船田牧師が訪ねてくるようになりました。最初は、家庭連合関係の本をたくさん持ってきて、『原理講論』の間違いなどを話して帰りました。

 私は一体どうすればいいのか分からず、神様にただ祈るばかりでした。一方的に批判を聞かされる私は、端的に言えば、笑えばいいのか? 泣けばいいのか? また、親の前で、牧師の前で、反論してもいいのか? 彼らにどのように接すればいいのかさえも分からず、ずっと悩んでいました。なぜならば、私が何を言っても、彼らはそれを受け入れてくれなかったからです。特に、船田牧師はそうでした。船田牧師は、家庭連合の信仰を持つ人に対して、「狂った者」「きちがい」としか思っていませんでした。

 そんな日々を過ごしていたある日、母のレポート用紙の中から、今回の監禁に当たっての綿密な計画が書いてある紙を見つけました。そこには、私をどのようにマンションに連れていくのか、マンションの中での生活内容、注意事項、親が取るべき姿勢、お風呂には2人で入ることなど、細かい指導が書き込まれており、さらには、私が「脱会届」を出した後でリハビリの生活が必要であることまで、さまざまな内容が書かれてあったのです。

 両親が牧師の指導を受け、その指導に全面的に従っているのが分かる内容でした。それを見て、私はさらにショックを受け、「もう誰も信用してはいけない」と固く心に決めたのです。

 そして、その計画書の内容を通して、私が脱会を決意するまではどんなことがあってもここから出してもらえないということを、再認識させられました。

 船田牧師は、私が監禁されてから2週間ぐらいまで、ほぼ毎日、マンションに訪ねてきました。その中で、統一原理の内容と従来のキリスト教の聖書解釈との違いを比較して批判し、さらには、文鮮明(ムン・ソンミョン)師の路程についても批判して、私の信仰すべてを否定してきました。

 私は心の中で、「人が神様から受けた啓示に対して、どうして他人がそれを嘘だと言い切れるのか? その根拠がどこにあるのか」と思いました。それは、本人と神様との間でしか分からない出来事であるはずなのに、それを、あたかも文師が嘘をついているように決めつけるのです。

 そんな牧師の姿を見て、「噓をつかせてここに連れてこさせたのは誰だ!? それを指導したのは、あなたではないか!」と感じました。その矛盾に満ちた牧師の姿勢を、私は到底受け入れることができませんでした。

 しかし、ここから出ようとするなら、「偽装脱会するしかない」と思い、何一つ反抗せず、ただただ忍耐し続ける日々を続けざるを得ませんでした。なぜなら、私のマンションの中での生活態度が、いつも両親から牧師に報告されていたからです。

 私は、本当に悔しくて、悔しくて、その思いをどこにぶつけることもできず、布団を何度も噛(か)んで泣きました。

 

次の章は、「偽装脱会」をお届けします。

残された心の傷③ 偽装脱会


▶『偽装脱会』を詳しく見る

 

 監禁から解放されるために、「きょうこそ、家庭連合をやめると言おう」「きょうこそは……」と、毎日そう思いながら、なかなか言い出す勇気が出てきませんでした。

 「本当に偽装脱会ができるだろうか……。また、言ったとしても、私がその後、家庭連合に戻ったら、親は悲しんでしまうだろう……」。そう思うと、なかなか決意ができませんでした。

 ちょうど40日がたった朝方、夢を見ました。真のお母様(韓鶴子〈ハン・ハクチャ〉女史)が真っ赤なチマチョゴリを着て、大きなおなかをされ、しんどそうに座っておられました。そして、その隣に真のお父様がおられ、「今回は難産なんだ」とおっしゃったのです。

 私が監禁されたのは、1600名の修練会が始まった時で、日本は世界を生かすエバ国家としての重要な使命のまっただ中にありました。それで私も決意して、乗り越えなければならないと思わされたのです。

 その日の夜、元信者の姉妹が訪ねてきて、「今どんな気持ちですか?」と私に尋ねてきました。「今、言わなければならない……」。私は必死の思いで、ようやく「家庭連合の信仰というものから離れたい」と言ったのです。

 しかし、「脱会宣言すれば、次はどうなっていくんだろう……」と、心の中は不安でいっぱいでした。自分の本当の気持ちを誰にも打ち明けることができず、心が不安定になっている私に対し、船田牧師は、真のお父様を中傷した反対派のさまざまな批判書を持ってくるようになりました。

 私は心が揺れ動き、どれほど神様に祈ったか分かりません。神様の願う真実な道を歩みたいと願う中で、神様はなぜ、こんなにまで、家族や私を苦しめるのか、とも考えました。

 そして、寝ながら布団の中で、「神様、あなたの前に真実に生きた方はどなたですか? あなたのために、最も涙を流された方はどなたですか?」と、まるで神様を試すようにして、真剣に尋ねました。

 すると、その夜、再び夢を見ました。それは、真のお父様の背中を私が流している夢でした。その背中は拷問を受けて、傷だらけになっている背中でした。

 迫害の中で、お父様はどんな屈辱と痛みを越えてこられたのだろうか……。お父様は地獄の底にいらっしゃったのだ……。マンションの中は、たった一人の孤独な闘いでしたが、神様は信仰の幼い私に対して勇気と知恵を与え、夢を通して守ってくださったのです。

 「根気強く、忍耐して頑張るんだよ」と、お父様がいつも励ましてくださっているように思えました。そして、たくさんの兄弟姉妹が夢に現れました。彼らが私のために祈ってくれていることを実感し、とても感謝しました。

 私一人の力では、とっくに倒れて、いろいろと考える気力さえも失い、今頃はどうなっていただろうかと思います。

 私が祝福を受けていること、そして、自分の気持ちをほとんど口に出して言わないことなどから、船田牧師たちは、とても私を警戒している様子でした。

 両親は、監禁生活が2カ月を過ぎるとイライラし始め、母は「もう帰りたい」と何度も泣いていました。その姿を見て、父が「何を泣いてるんや! この問題で今も泣いている親がいっぱいいるんや!」と母に強く言い聞かせました。すると母は、「分かってる! Tが統一教会の間違いが分かるまで、死んでもここを出ない」と決意し直すのでした。

 そのような両親の姿を見たとき、牧師から一方的な情報を刷り込まれ、精神的苦痛を負いながらも、「娘のために!」と思って、何も分からずに懸命に行動している姿があまりにもかわいそうに思えました。それと同時に、牧師に対する怒りを抑えることができませんでした。

 マンションの中は地獄でした。その頃、私は心身共に限界状態に達していました。親子なのに両親を、姉妹なのに妹を、全く信じることができず、本音で話ができないという、いつも緊張した状態の中にあって、気がどうにかなってしまいそうでした。

 ついに私は、吐き気や頭痛、指先にしびれが出てきて、心身共に傷つき果ててしまいました。外の空気を全く吸うこともできず、食欲も、体力もなくなり、急激に痩せて、監禁前に46キロあった体重は40キロにまで落ちてしまいました。今も、体重は元に戻りません。

 母から、「(京都聖徒)教会の人が、Tさんは何を考えているかよく分からないと言っているから、自分の気持ちをはっきり言いなさい」と要求されましたが、もし自分の気持ちを正直に話せば、永遠に続くであろう「監禁生活」。そこから逃れるため、私は家庭連合をやめたふりをする「偽装脱会」の手段を選ばざるを得ませんでした。そして、船田牧師から許可を得て、ようやく69日目にマンションを出ることができたのです。

 牧師は、マンションにいる間、「統一教会は一方的な教え込みをしており、洗脳だ」と批判し、「文鮮明が『人を殺せ!』と命令すれば、平気で人を殺してしまうような恐ろしいテロ集団だ」と、そんな事実はないにもかかわらず、言っていました。

 しかし、牧師のほうこそ、両親や親戚に一方的に情報を流し込み、家庭連合への憎しみを刷り込んで倍増させ、本心では“こんなことしたくない”と思っている両親に対して、「そうすることが子供のためであり、そうするしか方法がない」と指導して、拉致監禁という犯罪行為を行わせているのです。子供を心配する親の心理を利用し、不安をあおるやり方は問題です。また、私の「信教の自由」という基本的人権を配慮しようとする気持ちが一切ありませんでした。

 このように、私たち家族がマンションで苦しみ続けている間、実は、主人のほうも大変な苦しみを受けていました。

 主人(当時、婚約中)は、私の母から「親子の話し合いをします」という1通の手紙を一方的に受け取り、それを読みました。突然、私の居場所さえも分からない状況になったのです。主人はとても苦しみ、心に深い傷を負いました。

 

次の章は、「京都聖徒教会での軟禁生活」をお届けします。

残された心の傷④ 京都聖徒教会での軟禁生活


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 マンションを出てから、私は、牧師が「リハビリ」と称している生活をするために、京都聖徒教会へ行くことになりました。そこでの生活は、監視される軟禁状態でした。

 船田牧師の言い分によると、「脱会すると、今まで真実だと思っていたものが完全に否定され、絶望感に陥っており、それが深い心の傷となる。だから、統一原理の間違いをしっかり理解していなければ、普通の生活ができなくなる。社会復帰もできない。そのために正しい真理、聖書の教えを学ばなければならない」と述べ、京都聖徒教会に泊まり込んでの「リハビリ生活」をしなければならないということでした。

 船田牧師は、「信仰は自由だから強制はしない」と語る反面、「(キリスト教を)信仰していったらいい」と言ってきました。強制改宗をしている牧師が、こんな矛盾したことを言っていることに対し、私は「ここに真理はない。本当に自分が探しているものはない」と感じました。

 マンションを出るとき、家族は本当に疲れ切った状態でした。それでも父は、母と私がマンションを出る3日前にそこを出て、仕事に行き始めました。

 京都聖徒教会での軟禁生活は、私以外にリハビリ中の人が5人、元信者で「保護説得」と称して監禁場所に赴き脱会説得をして、献身的に活動している人が3人、そしてクリスチャンの奉仕者の女性が1人いました。それ以外に、船田牧師の家族も暮らしていました。

 牧師の家庭以外は、みんなで一緒になって寝泊まりしました。食事も、食材を自分たちで買いにいき、作って食べるのです。この時は外に出ることが許されましたが、私には母が付き添い、元信者の人も一緒で、逃げることもままならない状況でした。

 リハビリ生活の1日目は、母と妹も一緒に寝泊まりしました。しかし、妹は「こんな団体生活は、自分にはできない」と言って、翌日帰り、結局、私と母だけが残りました。

 そこでの生活は、朝6時から早天祈祷会(聖書の学び)があり、その後は、その日によってさまざまですが、祈祷会、聖書の勉強会、伝道集会、賛美集会、家庭集会などがあります。日曜日には礼拝と、午後1時からの家庭連合問題の相談会、月半ばからは、家庭連合問題の対策集会に出かけました。

 参加に関して、強制はされませんが、基本的には「参加するようにしてください」と言われました。

 母は、私がトイレに行くときも、洗面に行くときも、ずっと付き添ってきました。しかし、母には「娘を信じたい」という思いがあり、そのような監視生活をすることが苦痛だった様子でした。

 寝るときは、ドアの近くに元信者の人たちが寝て、私には「逃げるのではないか?」という警戒心からか、ドアから一番遠い所で寝るように言いました。

 ある時、母が泣いているのを見つけました。私が「どうしたの?」と聞くと、「もう少し子供さんのことを考えて行動してください」と教会の人から言われたとのことで、母は母なりに懸命に努力しているのに、そのように言われたことが、とてもつらかった様子でした。

 リハビリ生活に入ってから1週間後、私は「脱会届」を書くように言われました。脱会届を書くときは、既に船田牧師の元で脱会した人たちが書いた「脱会届」のコピーを見せられ、「このように書いたら良い」という指導を受けました。その時の私は、牧師たちの信頼を得ることによってしか外に出ることができない状況でした。

 「脱会届」を書いた後、私は母に「パーマをかけに行きたい」と言って、一緒に外を歩きました。母と一緒でないと外に出ることは許されませんでしたが、外を歩くことができたときに、「忍耐すれば必ず道は開かれる」と思え、まるで冬を越えて春を迎えてゆくかのような、希望を感じることができました。

 私がリハビリの生活をしているときに、主人が友人と共に、京都聖徒教会を訪ねてきてくれたことを、後から聞いて知りました。

 そのとき主人は、「Tさんは、今は会いたくないと言っています」と言われ、追い返されたそうです。主人は、東京からわざわざ私を捜して訪ねてきてくれたのですが、私に会うこともできず、追い返されたのです。そして私は、彼が訪ねてきたことすらも全く知らされませんでした。

 リハビリ生活が始まってから20日が過ぎた頃、母が少しずつ体調を崩し始めました。その様子を見た京都聖徒教会の人が、「Tさんもしっかりしてきたので大丈夫でしょう」と言ったので、母は自宅へ帰っていきました。

 母が一緒にいる期間は、お風呂は船田牧師の家のお風呂に入り、洗濯は、母が外のコインランドリーでしてくるような状況でした。しかし、母が家に帰ってからは、状況が変わりました。私が一人で外出することは許可されませんでしたが、誰かと一緒ならば、銭湯やコインランドリーに出かけられるようになったのです。

次の章は、「苦悩…、そして脱出」をお届けします。

残された心の傷⑤ 苦悩…、そして脱出

 


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 そんな中で、私は、両親や妹が犠牲になり、私のためを思って行動してくれたことを思うと、どうしても、もう一度家庭連合に帰る気持ちにはなれませんでした。「私は隠れキリシタンのようにしているしかないのか……」など、本当に頭の中がおかしくなりそうなくらい考えました。その時は、冷静に物事を判断する力など、なかったのだろうと思います。

 しかし、「家庭連合の教えを通して救いを感じていたことは、否定することができない」「主人はどんなに苦しんでいるだろうか……」と思うと、混沌とした状態が続いて、「一体、私の人生は、誰のものなんだ!」と大声で叫びたい心境でした。本当に苦しい日々が続きました。

 自分自身の本心では、「自分の気持ちに正直に生きたい!」という思いでいっぱいだったのです。

 牧師たちは、「もう大丈夫だろう」と私を信頼している様子で、拉致監禁されている兄弟の所へ一度、一緒に訪問しました。また、これから拉致監禁する予定の親や親族の方々が教会へ相談に来ているとき、「あなたの体験したことを話してあげてほしい」と言われ、話をしました。しかし、そうする中で、自分の本心を偽り、願ってもいない行動をしていることがたまらなく苦しく、「やはり、ここを出なければ、自分という存在が自分でなくなってしまう」と思いました。

 毎日、どうすべきかを、ただひたすら祈りました。

 そんなある日、京都聖徒教会の壁に聖句を見つけました。

 イザヤ書41章13節

 あなたの神、主なるわたしはあなたの右の手をとってあなたに言う、
 「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」

 「神様の声だ!」と確信し、涙があふれました。

 私は自分の心を偽らず、正直に生きたい。
 宗教間の争いの犠牲になりたくない。

 そう思い、神様の導きを信じて、脱走することを心に決めました。

 リハビリ生活から38日目、拉致されてから107日目に、私は束縛された異常な環境から、ようやく逃げ出したのです。

次の章は、「心の傷は癒えない」をお届けします。

残された心の傷⑥ 心の傷は癒えない

 


▶『心の傷は癒えない』を詳しく見る

 

 私が逃げてから3年間は、再度の監禁を恐れ、両親とはほとんど手紙だけのやりとりで、会うことはありませんでした。

 逃げてきたときは、家庭連合の教会には戻らず、私を助けてくださったご家庭にお世話になりながら、少しずつ心が癒やされていく日々を過ごしました。

 そして、私と主人は、そんな中で家庭を出発できたことを神様に感謝しました。

 純粋だった主人は、私が拉致されて以来、極度の人間不信に陥り、人と会うことを嫌うようになりました。

 主人の両親は、私たちの結婚を喜び、結婚式も考えてくださっていたそうです。しかし、私の両親が拉致の話を主人の両親にも持ちかけていたために、それも実現することなく、隠れるようにして2人の生活が始まったのです。

 主人は、私の両親をとても恨みました。この拉致監禁によって、どれほど心を踏みにじられたか分かりません。

 私が少しでも両親の話をすれば、主人の顔の形相が急に変わってイライラし始め、どこにも持って行き場のない思いを私にぶつけてきました。夜は熟睡できず、毎晩うなされました。そしてとうとう、主人は自分にはどうすることもできない恨みと悲しみを抱えて、鬱病になってしまったのです。働くこともできず、働いてもすぐに辞めてしまう、そんな自分を責め続け、苦しんだのです。

 6年間、アリ地獄に入ったような日々が続きました。

 そして、とうとう2006年の夏、私も鬱病になってしまったのです。

 主人は、今でも拉致の時の話をすると、怒りが込み上げてきて、形相が変わります。過去がフラッシュバックしてよみがえり、解けない恨みが湧いてくるのです。

 直接、拉致監禁をされなかったとしても、このように、周りの家族も苦しみ、深く傷を負います。そして、15年以上の時間を経たとしても、その傷は癒えないのです。

 私は長い間、主人の痛みを十分に理解することができず、私を責める主人を、私も責め続けました。しかし、自分が鬱病になり、その苦しみと、拉致された時の苦しみが重なって、主人の気持ちをもう一度考えさせられました。

 もちろん、私が彼を怒らせたことも何度もあります。しかし、主人は私に対して、「自分の腹の底にある、あなたの親に侮辱された恨みが、あなたに対する怒りをさらに大きくする」と言いました。

 それを聞いたとき、これは私と親だけの問題ではないと深刻に感じ、まだまだ我が家庭において、この拉致監禁問題が解決されていないことを改めて実感したのです。

 私も自分の無力さに落ち込み、生きている値打ちもないような気持ちになるときがあります。ただ自分が探し求めているものを求め続け、近くの家庭教会につながって、今はひっそりと信仰を持っています。

 3人の子供たちに恵まれて、子供だけは神様を中心にして育てたいと夫婦で願っています。

 反対牧師たちは、家庭連合の信仰を完全に失くしてしまうまでは、自由を奪います。親の子供を思う気持ちを利用し、「保護説得」という美しい言葉を使いますが、それは完全に非人道的な拉致監禁です。本人の自由意思を全く無視して、「気が狂った者」のように扱い、最も信頼したい親から拉致監禁されるのですから、子供が心に負う傷は本当に深いのです。

 信教の自由を奪い、親子関係に傷をつけて、それを修復していくことに、どれほどの時間と気力が要るか分かりません。このような行為は、人格を破壊し、精神も身体も脅かす許されない行為であると実感しました。

 そして、直接拉致はされなかったとしても、私の主人のように、身近な人がその問題で大きなショックを受けることで、精神的疾患を抱えるようになっているのです。

 独善的な「正義感」を持ち、罪悪感もなく拉致監禁をし続ける反対牧師たちがいることは、絶対に許し難いことです。

 私の体験は氷山の一角で、もっともっと大変な方々がいることと思います。

 これからも、この拉致監禁問題の解決のために声を上げていきたいと思います。

「拉致監禁」問題を考える特別シンポジウム ダイジェスト映像

 

 

※このページの内容はBlessed Lifeより引用させていただきました。

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