
拉致監禁・脱会強要は、逮捕・監禁罪(刑法220条)及び強要罪(刑法223条)
拉致監禁され、脱会強要を受けた信者が、再発防止と被害救済のため訴えることのできる法的手段には、刑事告訴と民事提訴があります。拉致監禁・脱会強要は、逮捕・監禁罪(刑法220条)、強要罪(刑法223条)に該当する犯罪ですから、本来ならば警察が犯人を逮捕し、検察が起訴して、刑事事件として裁かれるべきです。
しかし、日本の司法システムにおいては、公訴権を検察官が独占しているため、たとえ被害者が告訴しても、検察が起訴しない限り、犯人が刑事罰を受けることはありません。
拉致監禁の被害者が刑事告訴をした場合、現実には、警察は告訴状をなかなか受理しようとしません。たとえ受理しても、犯人の逮捕はおろか、家宅捜査もやりません。初動で強制捜査を実施すれば、拉致監禁の物証や被害者の家族と牧師らとの共謀関係を裏付ける証拠があるはずです。しかし、過去、刑事告訴を受理した案件において、警察は一度も強制捜査をしたことがないのです。ですから、犯人は口裏合わせのし放題であり、当然、証拠も集まりません。
検察も警察と同様の態度であり、最初から事件を潰す意図でやっているとしか思えない状況です。
これまで拉致監禁の被害に遭った家庭連合(旧統一教会)の信者が刑事告訴をした事例は、1980年の美馬秀夫さんと2人の女性による告訴に始まって全部で24件ありましたが、検察はそれらを全て不起訴としてきました。
1997年に鳥取教会襲撃事件で拉致された富澤裕子さんは、それから1年3か月にわたって監禁されました。富澤さんは脱会強要を行った神戸真教会の高澤守牧師と、拉致監禁を実行した親族を刑事告訴しましたが、この事件を検察は「起訴猶予」処分としました。この「起訴猶予」とは、犯罪の事実が明らかであるにもかかわらず、犯人の性格・年齢・境遇、犯罪の軽重・情状、犯罪後の情況などに配慮し、検察官の判断で起訴しない不起訴処分のことです。これは前科ではなく前歴として記録に残り、再び事件を起こした場合にはそれが情状証拠となります。
ところが、この高澤牧師は2001年10月に起きた寺田こずえさんの拉致監禁事件に関わり、寺田さんから告訴されています。このように反省もなく同じ犯罪を繰り返すようなケースは、当然起訴しなければならないにもかかわらず、検察はこの事件をまたしても起訴猶予としたのです。このため、高澤牧師はその後も脱会強要を続けました(高澤牧師は、2015年、3度目の刑事告訴で捜査中に自殺)。
その他の事件では、1997年に起きた今利理絵さんの事件、2002年に起きた元木恵美子さんの事件も、不起訴処分となっています。
2008年2月に解放された後藤徹さんの事件では、後藤さんは2008年6月に告訴状を提出しましたが、2009年12月9日に不起訴処分が下されています。処分通知書には処分の理由が記載されていませんでしたが、後藤さんが担当検事から口頭で説明を受けた際に、驚くべき「不起訴理由」が明らかになりました。
検察側は「玄関ドアを開閉不能にした理由は、宮村峻氏らが荻窪フラワーホーム804号室で告訴人を説得している最中に、外から告訴人が統一教会の人間に奪還されないようにするためであった」とか、「玄関ドアに掛けた防犯チェーンを更に、南京錠によってチェーンをはずせないようにしたのは、チェーンカッターで防犯チェーンを切られるのを防ぐためだ」といったような、極めて不合理な被告訴人側の主張をそのまま採用しているのです。
チェーンと南京錠によって内側から玄関ドアの鍵を開閉不能にする目的は、合理的に考えれば、人を部屋の中に監禁すること以外には考えられないはずです。また、仮に統一教会(現・家庭連合)の信者が来るとしても、それは監禁されている後藤さんを助けるために来るのであって、そのような救出行為を妨害する行為に正当性は認められないはずです。
にもかかわらず、検察側には初めから不起訴処分とするという結論があったために、明かに不合理な被告訴人側の弁解を故意に鵜呑みにして、被害者である後藤さんの合理的な主張を排斥したのです。
12年以上も監禁された後藤徹さんの事件が起訴されないとするならば、家庭連合の信者に対しては、たとえどのようなひどい扱いをしたとしても、犯人は刑事罰を免れることができる、というお墨付きを国家が与えることになってしまいます。
これは、日本においては家庭連合信者には人権がないと言っているのと同じことであり、日本の司法制度の重大な欠陥を示しています。私たちは、国内世論と国際社会に訴えて、この状況を改善していかなければなりません。