
「脱会する意志は本物か?」 高山正治、村上密、和賀真也 各牧師、そして離教者たちが、次々と“信仰審問”を始めた ──
人権を無視した拉致監禁、許せない M・S(女性)
今回の記事でご紹介するのはM・Sさん(女性)の拉致監禁・強制棄教の体験談です。完全に自由を拘束され、警察も助けてくれず、「意に反した脱会意志を示す」しか監禁状態から解放される道がありませんでした。しかしその後も、高山正治牧師、村上密牧師、和賀真也牧師らのディプログラマー、複数の教会離教者が私の「脱会意志」を見極めるため、次々と訪れるのです。
両親から「お見合いをしてほしい」と嘘をつかれ
入教5年目となった1991年、当時、広島県で歩んでいたのですが、他県に住んでいた両親の言動に、反対牧師につながっているような内容が見受けられました。それから間もなくの1991年3月、両親が車で広島へ遊びに来ることになりました。教会の責任者からは注意するよう助言を受けていましたが、拉致監禁に関する情報を詳細に知らなかった私は、「いざ監禁されたら、飛び降りてでも逃げてきますから」と、半ば軽い気持ちで出かけました。
父親が運転して、後部座席に母と私が座ったのですが、途中で母が、「実はきょうは、お見合いをしてほしいの」と私に話しかけました。私は家庭連合(旧統一教会)での結婚を望んでいたので、「お見合いで結婚するつもりはないから」と断りましたが、母が「そのことは分かっているけれど、親戚の勧めでどうしても断れないので、同席するだけでよいから」と言うので、仕方なく承諾しました。
連れて行かれた先は監禁部屋だった
連れていかれた所は、入り口がオートロックのワンルームマンションでした。部屋の中に入ると、なぜか従姉が2人おり、布カバーが掛けられた衣装ケースが隅に置かれていました。部屋の真ん中には、テーブルが一つありました。それを見た途端、”しまった、だまされた”と思い、すぐに引き返そうとしましたが、時既に遅しで、ドアノブには鎖がぐるぐるに巻かれて南京錠が掛けられていました。ベランダ側の窓の鍵も鎖でぐるぐる巻きにしてあり、それを隠すためにリボンが飾られていました。悔しさと腹立たしさとショックとが入り混じった、何とも言い難い複雑な心境に陥りました。
すぐさま、「ここから出してよ!こんな所にいる場合ではない!」と大声を上げましたが、両親は私の態度に動じることもなく、「これからここで一緒に勉強しよう」と妙に落ち着いた表情で私に言うのです。その両親のあまりにも落ち着いた態度が、変に不気味でした。後から分かったことですが、監禁するノウハウ(向こう側に言わせると監禁ではなく保護)や、監禁された人がどういう行動に出て、その時どのように対応すべきかを、私の監禁前に、反対牧師や拉致監禁によって離教した元教会員から、徹底して教育されていたのです。両親は、とにかく子供がどのような行動を取ろうとも、絶対に怒ってはいけないし、冷静な態度で振る舞い、一緒に勉強していくという姿勢を見せるように言われていました。
そしてもう一つ、これも後に両親から聞いたことですが、私を監禁するために乗せた車から、万が一私が逃げ出した場合、すぐに取り押さえられるよう、親戚の男性たちが数人乗った後続車が付いてきていたそうです。マンションは、飛び降りて逃げられないように3階以上の部屋と決まっており、私の部屋はたしか4階か、5階にありました。
地獄の監禁生活のはじまり
その日から、私の監禁生活が始まりました。両親は2人とも働いていましたが、この監禁のために長期休暇を取って臨んでいる様子でした。最初の3日間は、牧師は来ませんでしたが、それは牧師に私の状況を密かに報告しながら、私が聞く姿勢が整うのを待っていたのだと思います。狭いワンルームに24時間、両親に監視されながらいるのですから、それだけで精神的におかしくなりそうでした。夜中にふと目が覚めても、どちらかが起きていて、じーっと私のほうを見ていました。玄関の南京錠の鍵にはひもを付けて、父がいつも首からぶら下げていました。私が何を言っても、「自分たちも勉強したいから、ここで一緒に勉強しよう」と、決まった答えが返ってきました。
私は1日目から断食を始めましたが、体力に自信がなかったので、いざというときに逃げられないかもしれないと思い、とにかく心身共に健康な状態で、必ずここから出ようと決意しました。
4日目に入って、ようやく牧師が来ました。当時、岡山市庭瀬にあったキリスト教会の高山正治牧師でした。年齢は40代ぐらい(当時)に見えました。感情的なタイプではなく、とつとつと話す人でした。

高山 正治 牧師
日本同盟基督教団
倉敷めぐみキリスト教会
聖書と『原理講論』を比較しながら原理は間違いであると指摘され、写真や資料を見せられながら、文鮮明先生や文先生のご家庭の批判、教会のスキャンダルなどを毎日毎日、聞かされました。それ以外には、テレビや雑誌もなく、何の情報も入らないのです。両親は一緒に話を聞いてはいましたが、”一緒に勉強する”というより、”いかに私が、家庭連合が間違いだと理解するか”をうかがっているような態度でした。ベランダ側のガラス窓を割って逃げることを考えましたが、両親がずーっとそばにいて、何か起これば即対応する姿勢でいたので、逃げ出すチャンスがなかなか見つかりませんでした。
仮病をつかい病院へ 駆け付けた警察の驚くべき対応
何日かたってから、仮病を使って病院へ連れていってもらい、そこから逃げ出すことを計画しました。牧師は「仮病を使って逃げる教会員もいるから」といって外出させるのを渋りましたが、両親のほうが折れ、病院に行くことになりました。私は個人病院ではなく、逃げ出しやすい大病院を指定し、両親と妹の3人に付き添われて、そこに行きました。
病院の待合室で3人の監視が手薄になるようにし、父と2人だけになったとき、私は”今だ!”と走り出しました。入り口のタクシー乗り場に行き、タクシーに乗り込んだのですが、父が必死に追いかけてきたため、タクシーの運転手が発車してくれず、とうとう父に追いつかれてしまいました。しかし、私はとっさに運転手に、”私は監禁されています。私の名前は◯◯です。連絡先は◯◯です”と言いながら、あらかじめ準備していた教会の電話番号を書いたメモ紙を渡しました。
治療中も、医者やそこら中の人たちに聞こえるよう、「私は監禁されています。助けてください!」と叫び続けましたが、病院ということもあり、周囲から精神異常者のように見られて、誰も取り合ってくれませんでした。治療後、病院の事務局の人に、「ただごとではなさそうなので、警察を呼びました。こちらの部屋で話をしてください」と言われ、地下の部屋に通されました。そこには背広姿の刑事が2人おり、両親とひそひそと立ち話をした後、私と話をしてくれました。私は本当の刑事かどうかを確かめるため、警察手帳を見せてもらいました。
「とにかく、私は監禁されています」と彼らに訴えたのですが、「親が一緒にいて、何が監禁だ!あんたが家を空けた数年分、今度は家にいろ!」と、逆に刑事に怒鳴られたのです。警察は、自由を完全に拘束されている事情をすべて知った上で、このような態度を取っているのだと分かり、私は唖然としました。
結局、再び監禁場所に戻されることになり、本当にショックでした。ですが、両親は反対牧師からの教育を受けているため、その時の対応も冷静沈着で、何事もなかったかのように、次の日からも監禁生活が続きました。
「黙って勉強しろ」とか、決して感情的に声を張り上げたり、手を出したりすることがないようにと、徹底した教育をされていたのです。

「警察は見て見ぬふり」自民党の桧田仁衆院議員が田中節夫・警察庁長官へ国会質問2000年4月20日の衆院決算行政監視委員会で、自民党の桧田仁衆院議員(当時)が田中節夫・警察庁長官(当時)に対し、 「拉致、監禁、暴行、傷害罪など刑事罰行為に 触れる行為は、たとえば、親子や夫婦なら問われない...
私は家庭連合を脱会しますと宣言
それから約1カ月、牧師と両親と私との勉強会が続きました。他の誰ともコンタクトが取れない閉鎖された空間で毎日毎日、家庭連合の批判を聞かされる中で、私は精神的に混沌とし始め、家庭連合に戻っても信仰を続ける自信を失うほどの精神状態にまで追い込まれました。そこで、ある日、「私は家庭連合を脱会します」と、牧師と両親の前で意思表示をしました。「なぜそう思うのか。話の内容のどこでそう思ったのか」と尋ねられましたが、詳細は話しませんでした。高山牧師は、「偽装脱会をする人もいますから」と半信半疑で、「村上先生に会ってもらう」と言われて、京都から村上密(ひそか)牧師が呼ばれました。村上牧師は、私が本当に家庭連合が間違っていることを理解して脱会しようとしているのかを見極めるために、2度訪ねて来ました。

村上 密 牧師
日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団
アッセンブリー京都教会
”もう大丈夫だろう”と監禁場所から解放される許可が出たので、私は家庭連合の福山家庭教会に脱会する旨を書いた手紙を郵送し、それから、荷物を福山家庭教会に取りにいきたいと希望しました。しかし、「統一教会(家庭連合)は本当に恐ろしいところで、いったん辞めると何をされるか分からないから、2度と行かないほうがいいし、誰とも会わないように」と説得されました。後日、東京から和賀 真也牧師も私に会いに来ました。
私が監禁された当時から、拉致監禁によって既に離教した姉妹たちが、監禁場所へ訪ねてきていました。私が脱会してからは、私の脱会意思が本物であり、家庭連合への未練がないかどうかを探る目的もあって、毎晩のようにやって来ました。本当に家庭連合に未練がないのかどうかという心の動きは、牧師ではなく、離教したメンバーが一番よく分かるからです。家庭連合では飲酒はしないことから、元信者が「脱会したからもう禁酒しなくてもいいのよ」と言いながら、親しみの情なのか、私の脱会の意思を確かめるためなのかは分かりませんが、あえて缶チューハイを持ってきたこともありました。
高山牧師の教会へ来る人々
私はその後、聖書を学び直してみようという思いから、そのワンルームマンションに少しの期間だけ、一人で滞在させてほしいと、両親に願い出ました。また、高山牧師の教会に通って聖書を勉強し、主日礼拝にも何度か足を運びました。しかし、家庭連合で学んだ以上に私の心を動かすものはありませんでした。主日礼拝には、「これから何を信じて、どのように生きていけばよいのか分からない」というように、生きる指針を失い、とりあえずの身の置き所を求めて来ているような、離教した人たちも数人、通っていました。
高山牧師の教会の看板には、「統一教会、エホバ(ものみの塔聖書冊子協会)などの異端問題の相談を受け付けています」と書かれていました。礼拝後は、別室に通されるのですが、そこには家庭連合から離れたメンバー数人のほかに、家庭連合に子供が通っていることが分かり、どうしたらよいか、と相談に来ている親御さんたちが数人いました。
そこで、「家庭連合との関係を断つ環境で、時間をかけて説得するしか、子供さんが家庭連合から離れることはないですよ」という話になり、親御さんの一人が「それにはどうしたらよいのでしょうか」と深刻に尋ねても、高山牧師は「それは私の口からは言えないので」と、具体的な監禁の話は決して口に出さず、元メンバーたちに誘導させていました。そこから、具体的にどうしたら良いという話に進んでいき、「家庭連合は反社会的団体なので、絶対に子供さんを活動に荷担させてはいけない」と、父兄に吹き込むのです。そうして徐々に、監禁までしなければ、子供を取り戻せないという話になっていくのでした。
ある時、高山牧師から「統一教会(家庭連合)で今まで献金したり、物品を購入したりしたことがあれば、弁護士を紹介するから、統一教会に経済的ダメージを与えて早く潰すためにも、全額を返済してもらったらいい」と言われました。
信仰の核心は覆らず家庭連合へ戻った
私は約1カ月の間、精神的に整理をしながら、両親に気づかれないように家庭連合へ戻る準備をしていました。この期間にも、離教した姉妹の手記や、和賀真也牧師による教会批判の本などがたくさん持ってこられたので、全て目を通しました。しかし、私の中にある家庭連合の信仰の核心的な部分は、何をもってしても覆されませんでした。そして、両親に置き手紙を書き、家庭連合に戻ったのです。
析祷室には、私の似顔絵が描かれた色紙が立て掛けられていて、兄弟姉妹たちが私のために毎日どれほど祈ってくれていたかを実感しました。
それでも、それから1年間は、再び捕まるのではないかという恐怖心に苛まれ、精神的に地獄のような日々が続きました。道を歩いていても、前方の側道沿いに停車している車があると、その車から人がバッと降りてきて連れていかれるのではないか、また道のどこからか人が出てきて車に乗せられるのではないかなど、いつも恐怖が付きまとうので、外に出るときはサングラスをかけて歩いていました。あの堪え難い環境に再び置かれるかもしれないという恐怖と、監禁によって受けた心の傷がなかなか拭えませんでした。
愛情が動機となり、批判的な情報のみを聞かされて監禁までせざるを得なかった両親に対しては、恨む気持ちはありません。今は結婚して子供2人にも恵まれましたが、そんな私たちに、普通の家族同様に接してくれる両親には感謝しています。しかしながら、信仰を真っ向から否定し、人権を無視した拉致監禁という行動自体は絶対にあってはならないことだと思っています。