襲撃、拉致、手錠、そして飛行機で連行 監禁アパートは‟思想改造収容所“だった
監禁アパートは‟思想改造収容所“だった
●1980年、京都大学在学中に旧統一教会系の学生団体・原理研究会に入会
途中、人身保護請求の裁判がなされたが、左翼系弁護士約200名が審理を引き延ばす異常な手段を講じた。
襲撃、拉致、手錠、そして飛行機で連行
1987年の夏、吉村正氏(当時28歳)は京都市内の病院を出たところで、突然、5人の男たち(一人は父親)に襲われ、ジャンボタクシーで拉致された。
両手には逃亡を防ぐための手錠がかけられていた。
恐怖におびえ、混乱する中で着いた先は、なんと名古屋の飛行場。
吉村氏は、小型双発機に無理矢理乗せられ、札幌まで連行された。
そこに準備されていたのは、アパートとは名ばかりの鉄格子入りの「思想改造収容所」だった。
吉村氏が監禁されていた札幌市の豊明住宅
吉村氏が監禁されていた札幌市の「豊明住宅」3号室の実際の写真。
窓の内側に鉄格子がはめられ、ガムテープでサッシが固定されている。
豊明(ほうめい)住宅とは?
1984年から統一教会信者を監禁し、脱会強要するために利用されてきた戸田会長所有の物件。
吉村氏が監禁された3号室は、ドアには特殊 な施錠が施され、内側からもカギがなければ開閉できなかった。
部屋は両隣に1号~6号室まで あり全て同じ作りである。
子を思う親心につけ込み、狂気に走らせる脱会屋グループ
吉村氏を襲ったのは誰だったのか。
それは、「統一協会=原理運動=勝共連合の暗躍を憂慮する北海道の会(憂慮する会)」の戸田実津男会長の下の暴力団風の男ら4人、それと脱会屋グループにそそのかされた吉村氏の父親だった。
周到に準備計画された拉致監禁、脱会強要。
親子の問題を隠れみのにして、自分たちの意にそぐわない思想信条の持ち主を‟思想改造“しようとするのは明らかな人権蹂躙であり、吉村氏は心底憤った。
吉村氏の監禁場所を特定した教会側はすぐに地元の札幌地方裁判所に人身保護請求(法律上正当な手続きによらないで身体の自由を拘束されている者が、その救済を求めるもの)を申し立てた。
ところが、戸田会長側は198名の共産党系弁護士を組織して裁判所に圧力をかけ、裁判手続きの引き延ばしを図った。
吉村氏が脱会してしまえば「結果オーライ」という謀略だ。
監禁から2ヶ月がたったころ、吉村氏は精神的に限界に達し、発狂する恐怖にさいなまれた。
そんな中、監禁が緩和された隙をみて吉村氏は自力脱出に成功する。
監禁が始まってから76日後のことであった。
刑事告訴に対し主犯格が「謝罪文」で取り下げ懇願
吉村氏らは、1987年12月、主犯格である戸田 実津男氏らを刑事告訴した。
戸田氏らの監禁 事実は隠しようがなく、追い詰められた戸田 氏は、謝罪文を条件に告訴取り下げを懇願してきた。
戸田実津夫氏、謝罪文の内容
謝罪文
私、戸田実津男は昭和五九(一九八四年)六月以来「統 一協会=原理運動=勝共連合の暗躍を憂慮する会」 の会長として吉村君、○○君 ○○さん、○○さんら 統一教会員に対する拉致監禁及び棄教強要などを行ってまいりました。
しかし、吉村君の人身保護請求事件や○○さん、○○ さんら四名の告訴を通じて今まで私が「統一教会か らの救出活動」として行ってきた行為が憲法にいう基本的人権や信教の自由思想信条の自由を侵すものであり刑法にも触れるものであることを知りました。
また監禁棄教強要を受けた、あなたがた統一教会の青年達にとって大きな心の傷になってしまったことを知り、誠に申し訳なく思っており、ここに心か ら謝罪する次第です。
また同時に私は統一教会員に対する拉致監禁棄教の強要や信徒の父兄に対して根拠のない悪口を流すこと、故意に悪いイメージを持たせることは、今後 一切いたしませんことをお約束いたします。
なお私は現在「憂慮する会」の会長を退き今年四月には「戸田事務所」も解散しましたのでその旨合わせてご報告いたします。
昭和六三年十一月十日
戸田実津男 印
吉村 正 様 ○○○○様
吉村氏らは、今後、一切、統一教会信 者の拉致監禁に関わらないことを条件に、札幌 地方検察庁で検察官立ち会いのもと目の前で戸田本人が書いた謝罪文を受けとった。